下町の子供たち
明治中ごろの小学生の服装は、もちろん今のような洋服ではなく、縞の着物に紫紺色をしたメリンスの兵児帯を締め、紺の前掛けをしていた。履物は、靴の代わりに下駄や板草履であった。学校の運動会の時でさえ、草鞋か足袋裸足で走ったと …
貧しい人々
浅草は江戸時代からの伝統的な家内工業が根強く残っており、人口も多く、明治の大規模な近代工業を受け入れる条件が整っていたとは言えなかった。そこで大工場は、従来の市街地の周辺に建設されていったのである。それらの工場は文字通 …
二人の老人の話
一家が千束町に住んでいたころ、近所に二人の老人がいたが、教祖はこの二人から、犯した罪の報い、人間の運命について、大変鮮烈な印象を受けたのであった。 一人は教祖の父親・喜三郎の商売仲間の、花亀という老人であった。この男 …
東京美術学校
明治二九年(一八九六年)三月、普通では八年間かかるところを、一年短縮した七年間で浅草尋常高等小学校高等科をめでたく卒業することができた。教祖一三歳の春のことである。その時の「卒業生名簿」には、二九名全員の卒業後の進路が …
闘病の明け暮れ
美術学校へ入学した一四歳から二〇歳ごろまでは、普通の若者にとっては、命の躍動を享受する、文字通り青春時代ともいうべき時期にあたっていたのに、教祖にあっては、病に明け暮れる灰色の日々であった。 眼病は、二年ほどかかっ …
日本橋・京橋・築地
明治三二年(一八九九年)四月、喜三郎は浅草千束町から、日本橋浪花町へ移り、ここで古物商の店を開いた。このあたりは現在、商業の一大中心地であるが、明治三〇年代も同様であった。ことに、明治二七、八年(一八九四、五年)の日清 …
蒔絵の習熟
このころ、教祖は奈良時代以来の日本固有の高度な伝統工芸である蒔絵に興味を持ち、将来は自分の店に自作の品を並べたいと考え、近所の蒔絵職人の所へ習いに行くことになった。 蒔絵というのは漆工芸の製品の一種である。木の材質の …
黒岩涙香と萬朝報
明治三五年(一九〇二年)から三八年(一九〇五年)にかけての数年間、教祖にとって、健康もしだいに快方に向かい、また両親や兄夫婦たちにも支えられた平穏な生活が続いた。このころ力を入れたのは読書を主とした勉学であった。 人 …
哲学の学び
教祖はさらに、西洋哲学の図書も数多く読んだ。なかでもとくに強い共感を覚え、高く評価しているのは、アンリ・ベルグソンの「直観の哲学」と、ウィリアム・ジェームズが主張した「プラグマチズム」である。 アンリ・ベルグソン(一 …
父の死
教祖が両親や兄夫婦、そして姉・志づの遺児・彦一郎とともに、明治三五年(一九〇二年)から数年間、青春の日々を過ごした築地は、東京の南東、堀割に囲まれた町並みで、東京湾の潮の香が間近に漂う海岸地帯の一画にある。この築地のす …