闘病の明け暮れ

 美術学校へ入学した一四歳から二〇歳ごろまでは、普通の若者にとっては、命の躍動を享受する、文字通り青春時代ともいうべき時期にあたっていたのに、教祖にあっては、病に明け暮れる灰色の日々であった。 

 眼病は、二年ほどかかっても一向に良くならず、治療を諦めてしまった。さらに、あたかもそのあとに追い打ちをかけるように、今度は肋膜炎にかかったのである。

 肋膜炎の時は、治療費もままならぬため、東京帝国大学医科大学付属病院の施療科に入院したが、この施療科というのは、入院費も薬代も無料である。その代わり、医学生の実習の実験台にならなければならない。その精神的苦痛は並大抵ではない。

 そのうえ、肋膜炎もまた厄介な病気であって、肋膜に水がたまると、穿孔排水といって、大きな注射器で胸から水を抜かねばならぬのである。一年ほどで全快したかにみえたが、やがて再発してしまった。当時のことを教祖は、つぎのように記している。

 「私は、十五歳の時、肋膜炎を病み、医療により一年位で全快、暫らく健康であったが、また再発したのである。然るに今回は経過捗々〈はかばか〉しくなく漸次悪化し、一年余経た頃、ついに肺結核三期と断定せられた。その時が丁度十八歳であった。そうして最後に診察を受けたのが故入沢達吉博士で、同博士は綿密に診察の結果、最早治癒の見込なしと断定せられたのである。」

 本来であれば無限の可能性と、希望に胸をふくらませるはずの青春時代に、死の宣告にも等しい医師の言明を受けた教祖の心は、あまりの衝撃に茫然となり、暗澹〈あんたん〉として何をする気持ちも起こらず、悶々のうちに日を送るばかりであった。死という逃れようのない運命が暗渠〈あんきょ〉のように大きな口をあけて眼前に迫っている。それから逃れる方法は一つだにない。刻一刻と、死は確実に近づいてくる。教祖はその心境を、「執行日を定めない死刑の宣告を受けたようなものである。」と後に書いている。しかし、その時、教祖の衰えた肉体の奥底から不思議な力が湧き起こった。断じて生きなければならない、生きたい、という心の奥底からの叫びにどう応えたらよいか。そのきっかけを求めて一日一日を過ごした。

 「そこで私は決心した。それはどうせ自分はこのままでは死ぬに決っているとすれば、何等か変った方法で、奇蹟的に治すよりほかに仕方がないと意〈おも〉ひ、それを探し求めたのである。」

 当時、教祖は以前よりも幾分目がよくなっていたので、絶望的な闘病生活の中において、画を描くのを唯一の楽しみにしていた。古い画譜(絵画を類別して集め、画論などを載せたもの)をよく拾い読みすることがあった。

 ある日のことである。教祖は『本朝薬草彙本〈ほんちょうやくそういほん〉』という薬草の本を見ていた。草根木皮の絵を眺め、花や葉、実などの効用についての説明を読むうちに一つの考えがふと閃いた。それは植物のうちに、これほどの有効成分が含まれているのだから、菜食にしてみたらどうだろうかという思い付きであった。そこで試みに実行してみた。すると非常に調子が良いのである。こうして教祖は、それまで医師の指示に従って動物性の栄養食ばかりを盛んにとっていたのを、煮干しもとらぬくらいの徹底した菜食主義の食生活に切り換えてみた。するとどうであろう、医師から不治と診断された肺結核が奇蹟的に治癒、全快できたのであった。

 このようにして、教祖は病との戦いの未に成人の日を迎えた。本人もまわりの者も一度は諦めた生命であったから、再生の喜びをかみしめ、その感慨はひとしお大きなものであった。しかし、当時不治と言われた結核は克服したものの、生来の虚弱な体質は相変わらずで、本当の健康をうるまでにはなお数年の歳月を要したのである。このころの教祖の健康状態を物語る逸話が一つ伝えられている。

 第二次世界大戦終結まで、日本の男子はすべて満二〇歳になると徴兵検査*を受けなければならなかった。そのさい、教祖は担当官から、「おまえは屑の身体だ。」と言われ、丙種合格となった。丙種というのは、不具者が受ける丁種の一歩手前の、つまり、まともな身体ではないという評価であった。

 *明治になって採用された国民の義務兵役制に基づき、身体や身上の資格を検査すること

 このように夢多いころ、相次ぐ難病に悩まされたため、何かにつけ教祖の心はふさぎがちであった。当時を回想してつぎのように記している。

 「十五歳から二十歳頃までは人並以上の意気地なしで、見知らぬ人に遇うのは何等の意味もなく恐ろしい気がする。特に少し偉いような人と思うと、思うように口が利けない。
又若い女の前などに出ると、顔が熱して眼が暈み、相手の顔さえもロクロク見えず口も利けないという訳で、大いに悲観したものである。従って自分の如きは一人前の人間として社会生活を送り得るかということを随分危んだのである。そんな訳であるから、その頃世間の人を見ると、自分よりみんな利巧で偉いように見えて仕方がなかった。」