貧しい人々

 浅草は江戸時代からの伝統的な家内工業が根強く残っており、人口も多く、明治の大規模な近代工業を受け入れる条件が整っていたとは言えなかった。そこで大工場は、従来の市街地の周辺に建設されていったのである。それらの工場は文字通り日本近代化の象徴であり、日本の躍進を担う原動力であった。しかし、基本的人権の十分に確立されない明治初期において、近代的な工場で働く人々の労働条件はきわめて苛酷なものであった。

 白鬚橋から北へ向かって一キロ足らず、隅田川が大きくカープする鐘ヶ淵に紡績工場ができたのは明治二〇年(一八八七年)である。当時この工場で働く女工は約一六〇〇人、そのほとんどは一三歳から二四歳までの娘で、昼夜二交代の一二時間労働であった。しかし、休憩時間はその間に三、四〇分一回だけである。仕事の忙しい時には、普通の勤務時間の前後に、さらに二時間、合計一九時間も立ち通しに働くことがあったが、賃金は大体が日給八銭から一〇銭、ほかに月三、四〇銭の残業手当が付く程度であった。これから食費を払ったりすると、ほとんど手元には残らなかった。しかも、一食二銭、月一円八〇銭の食費を払いながら、その食事たるやサトイモの煮ころがしにレンコン、タクアンといった程度で、とても一食二銭とは思えないものであった。寄宿舎は一人分として畳一枚、せんべい布団一枚、寒い時には抱き合って眠るという貧しい生活を送っていたと伝えられる。職工の優遇を強調したこの会社でさえ、このような状況であった。これはまさに女工哀史そのものである。しかも、これはひとり、鐘ヶ淵の紡績工場のみではなく、山梨県、長野県、その他各地にも見られたことである。

 また、浅草観音の人出をあてにして、多くの人々が浅草へ出稼ぎに来ていたが、そういう人が安く寝泊まりできる木賃宿(宿賃の安い簡易な宿)が、明治のころには、すでに山谷町あた りにできていたのであった。昭和になって、この種の人々がしだいにふえ、さらに第二次世界大戦後、上野地下道の新潮都が合流し、大阪の釜ケ崎と並び称される山谷のドヤ街(簡易旅館街)となったのである。

 教祖は、幼年期において、赤貧洗うがごとき家庭に育ったので、貧のつらさ、苦しさを世相一般としてではなく、身につまされる実感として強くその心に刻み付けたことであろうと思われる。わが身はもちろん、周囲の人々の中にも、貧しさゆえの苦しさ、悲しさを直接見たり聞いたりして、心を痛めることが多かったに違いない。 

 しかし、教祖はこうした体験に出会いながらも、それらに対し、ただ心を痛めるだけではなく、直面する苦悩や逆境を心の糧として生かし、天性の人間愛をさらに一段と磨きあげ、一層 の幅と深みを人格内に加えたのであった。その行き着くところは、後年、こうした世の中にいつの時代にもある貧や苦を、いかにして解決し、転換していくかの化他(他人を救いとる)の行の究明に高められたのである。