(02) 少年のころ 教祖揮毫 「超凡」

当時の学校制度

 明治政府の指導者たちは、西欧列強に対する日本の近代化の遅れを取り戻すために、西洋の文物や科学、技術の導入、摂取に懸命の努力を払った。とりわけ、国家に有為な人材を育成するため、近代教育を重んじ、学校という組織的な教育機関 …

寺小屋式の私塾

 明治二二年(一八八九年)一月、六歳の年に教祖は浅草山谷町の私立・日新尋常小学校へ入学した。この小学校は、先に触れたように、その年の七月に「小学校設置願」を提出しているので、入学のころはまだ寺小屋式の私塾であったと考えら …

名門校への転校

 明治二二年(一八八九年)五月、岡田家は橋場から浅草山谷町へ移った。ここは日新尋常小学校のすぐ近くなので、通学には都合がよかった。ついで二四年(一入九一年) 二月、今度は千束町へ引っ越すことになった。ここは浅草寺の北西三 …

少年期の思い出

 明治三二年(一八九九年)の四月、一家は日本橋浪花町へと引っ越し、初めて浅草を離れた。  教祖が人間形成の基礎となる幼少年時代を過ごした浅草一帯は、東京の中でもいわゆる下町といわれる地域である。同じ下町でも、神甲京橋、日 …

下町の子供たち

 明治中ごろの小学生の服装は、もちろん今のような洋服ではなく、縞の着物に紫紺色をしたメリンスの兵児帯を締め、紺の前掛けをしていた。履物は、靴の代わりに下駄や板草履であった。学校の運動会の時でさえ、草鞋か足袋裸足で走ったと …

貧しい人々

 浅草は江戸時代からの伝統的な家内工業が根強く残っており、人口も多く、明治の大規模な近代工業を受け入れる条件が整っていたとは言えなかった。そこで大工場は、従来の市街地の周辺に建設されていったのである。それらの工場は文字通 …

二人の老人の話

 一家が千束町に住んでいたころ、近所に二人の老人がいたが、教祖はこの二人から、犯した罪の報い、人間の運命について、大変鮮烈な印象を受けたのであった。  一人は教祖の父親・喜三郎の商売仲間の、花亀という老人であった。この男 …