名門校への転校

 明治二二年(一八八九年)五月、岡田家は橋場から浅草山谷町へ移った。ここは日新尋常小学校のすぐ近くなので、通学には都合がよかった。ついで二四年(一入九一年) 二月、今度は千束町へ引っ越すことになった。ここは浅草寺の北西三、四町(約三五〇メートル)にあたり、現在の浅草三丁目である。これを機として、教祖は浅草尋常高等小学校へ転校することとなった。

 浅草尋常高等小学校は、明治初年、浅草寺にほど近い、浅草田島町誓願寺内に設けられた私塾として出発したものである。後に校地を移転し、教祖が転入学したころには浅草寺に近い浅草区馬道町四丁目一九番地(現在地、台東区花川戸一丁目一四番)にあり、「東京府下五校の一つ」とうたわれた名門校であったのである。この学校を卒業した著名人には、政治家では、国務大臣、文部大臣などを歴任した安藤正純代議士、劇作家の久保田万太郎(『久保田万太郎戯曲集』の著者)、歌人の土岐善麿(『作者別万葉集』『田安宗武』などの著者)らがいる。

 教祖が入学したころの浅草小学校は、煉瓦造りの二階建校舎が新築されたばかりであった。
普通の小学校はといえば、おおむね木造平屋建であったので、当時としては大変立派な校舎であったといえよう。

 明治二九年(一八九六年)三月に高等科を卒業するまでの四年半、教祖はこの小学校で学んだが、その間の成績は抜群であった。当時、成績優秀の生徒に対しては、学年の途中で教育会(今日の教育委員会にあたる)から賞品が、また、学年の終わりには区長から優等賞状が授与された。少年時代の教祖に与えられた賞状で、現存しているものはつぎの通りである。

 一年特進の後、名門校へはいったにもかかわらず、引き続いて右のように優秀な成績だったことは、教祖の明敏な頭脳を証明するものであるが、天は二物を与えずの諺のごとく、幼児期以来の病弱はずっと続いていた。

 そのころのことを、教祖はつぎのように記している。

 「十二三歳頃迄は、腺病質のいわゆる虚弱児童で、薬餌に親しみ通しであった。それでも小学校だけはどうやら終えたが、子供ながらも、他の健康児童をみると実に羨しかったものである。しかし不思議にも学校の成績はよく、大抵主席か二番より下らなかった。」