黒岩涙香と萬朝報

 明治三五年(一九〇二年)から三八年(一九〇五年)にかけての数年間、教祖にとって、健康もしだいに快方に向かい、また両親や兄夫婦たちにも支えられた平穏な生活が続いた。このころ力を入れたのは読書を主とした勉学であった。

 人一倍、向上心が強く、努力家だった教祖は、肺結核で不治の宣告を受けた時でさえ、けっして読書をやめることはなかった。小康を得てからは、ますます熱心に打ち込み、夜、床についてからも昼間読み残しの新開、雑誌や図書を読むので、眠るのは家族の中でいつも一番遅かったという。また、手洗いの中まで書物を持っていき、読んでいた、と兄嫁のすえは語っている。

 教祖がもっとも愛読した書物は、財界人の立志伝である。そこから、先人の苦心や信条はどうあったのか、運命を開くもとになった着想はなんであったのかなどを個人の体験事実にそくして学びながら、きたるべき時の備えをしたのである。

 教祖は明治三五年(一九〇二年)成人を迎えたが、おりしも世間では立志伝が大いにもてはやされた時代であった。明治維新以来、政府は新しい国造りを進めるため、人材の育成を重視し、国運を切り開く人物の登場を待ち望んだ。そのために立身出世は国民共通の目標として積極的に奨励された。そうした考え方が広く国民の間に浸透して、ひときわ抜きん出て立身を図ることがこの時代の一つの思潮となった。

 雑誌『成功』が発刊され、同じく雑誌『実業之日本』がとくに編集方針として、積極的に実業家の体験記や回顧録を毎号連載するようになったのもこのころである。これらを読んだ教祖は、「成功するような人たちはやっぱり違うなあという感嘆の言葉が口癖であった。しかし、一般には立身の目的は、自己一身の幸福追求のためととられがちであったのに反し、教祖の場合、むしろそのことを通して多くの人々を幸せヘ導くという、大乗的な理想に基づくものであった。これは教祖がそのころ、家族に、
 「今に出世したならば、困っている人を助け、社会に迷惑をかける人をなくしたい。私はいつでもそのことが頭にあるんだ。」
と言っていたことによって知られるのである。

 教祖が熱心に読んだものに、また新開がある。テレビはもちろん、ラジオもないころのこと、新聞が内外のニュースを知る唯一の手段なので、教祖はできるだけ多くの新聞を購読した。『大和新聞』や『二六新報』、中でも黒岩涙香〈くろいわるいこう〉が発行していた日刊新聞『萬朝報(よろず―何ごとにも重宝の意。一部一銭)は、待ちこがれるようにして読んだのであった。

 『萬朝報』は、政界財界の不正や腐敗を暴露し、激しくこれを攻撃したので、上流社会の一部からは大いに恐れられた。伊藤博文も毎朝、他の新聞より先に、まず萬朝報に目を通したといわれるほど、当時の新聞界でひときわ異彩を放っていた。

 無教会主義のクリスチャンとして知られる内村鑑三*が『萬朝報』にふたたび入社したころ涙香はまた、社会の改良のため、「理想団」の設立を提唱、『萬朝報』の読者にも参加を呼びかけている。社会救済のためのこのような提唱をした涙香の態度に、教祖は深く共感を覚えるものがあった。後に教祖は、社会正義を守るため新開経営を志すことになるが、その姿勢にはこの『萬朝報』によった涙香の精神に通ずるものがあった。

 *内村鑑三は、理想団結成より少し前の明治三〇年(一八九七年)に、『萬朝報』の英文欄主筆となっている。彼は宣教と幅の広い言論活動で活躍した 黒岩涙香はまた盛んに講演会を開いた。教祖はしばしばこれを聞きに行っている。これについて、
 「昔萬朝報という新聞の社長であり、又翻訳小説でも有名であった黒岩涙香という人があった。この人は一面又哲学者でもあったので、私はよく氏の哲学談を聞いたものである。氏の言葉にこういう事があった。それは人間は誰しも生まれながらの自分はろくな者はない。どうしても人間向上しようと思えば、新しく第二の自分を作るのである。いわゆ第二の誕生である。私はこの説に感銘して、それに努力し、少なからず稗益した事は今でも覚えている。」
と書いている。

 明治三七年(一九〇四年)七月一〇日、東京・神田の惟一館という所で、黒岩涙香は学生を中心にした約五〇〇名の聴衆を相手に、「人生問題――修養の方法」と題し講演をしている。この講演は「古い自分から再生して第二の新しい自分となること」を提唱した内容であった。教祖が聴衆の一人として深い感銘を受けたのは、おそらくこの時のことであろう。

 このように、黒岩涙香の思想や言動は、みずからの歩むべき道を求めてやまなかった若き日の教祖の人間形成に、大きな影響を与えたのである。