蒔絵の習熟

 このころ、教祖は奈良時代以来の日本固有の高度な伝統工芸である蒔絵に興味を持ち、将来は自分の店に自作の品を並べたいと考え、近所の蒔絵職人の所へ習いに行くことになった。

 蒔絵というのは漆工芸の製品の一種である。木の材質の上に、漆を何層も塗ってから、さらに漆で下絵を描き、乾かぬうちに、金や銀、錫など金属粉、または朱、白色顔料など色粉と呼ばれる粉を蒔いて付着させ、絵や図柄を描き出すものである。蒔絵の名はここから出ている。実際には、さらに漆を塗り重ね、木炭で研ぎ出すなど、大変手のこんだ工芸品なのである。

 わが国では古くからたん、箪笥〈たんす〉や整理棚などの家具、硯手箱、手箱などの調度品、さらに櫛や 印籠のような、ふだん身に付ける日用具にいたるまで蒔絵によって美しく飾っている。この漆 工芸そのものは広く東洋独特の技術であるといえるが、なかでも蒔絵は日本で考案創造された 独自の技術である。それゆえに日本を代表する伝統工芸の生み出した芸術品として世界に知られているのである。このことは、中国の国名をさす英語名「チャイナ」が、そのまま外国では 中国特産の陶磁器を意味するのと同じように、「ジャパン」という「日本」の国をさす英語は、同時に「日本製陶磁器」を表わすばかりでなく、ずばり「漆」「漆器」の意味があることでもこのことが証明されるのである。

 やがて教祖は、その下絵から仕上げまでの全工程を一人でやりとげ、桐胴の火鉢や煙草盆などを作り上げるほどに習熟した。ちょうどそのころ、上野に美術博覧会が開かれたので、そこの売店に自作の作品を展示したところ、なかなかの評判となり、品物はみな売り切れたということである。これに力を得て、大いに意欲を燃やし、さらに蒔絵に打ち込んだ。後に光琳堂という小間物屋を経営するようになってから、小間物とは別に、自分の作品を店先に置いて商品としたが、その端緒は、すでにこのころにあったのである。

 いろいろと曲折はあったものの、築地時代の数年間は、岡田家にとって暮しに余裕もでき、家庭的にも落ち着いた時代であった。明治三四年(一九〇一年)、兄・武次郎は妻「すえ」を娶ったが、兄夫婦と志づの遺児・彦一郎を含めた一家六人の生活は、細やかな愛情の通う平和なものであった。

 教祖にはとくに親しい友人はなかったけれども、父・喜三郎や兄・武次郎とはよく気が合った。喜三郎は若いころから美術を愛し、美術の素養もあったので、芸術を志す教祖のもっとも良き理解者であった。

 兄・武次郎とは、ときには男同士、議論を戦せることもあったが仲が良く、あちこちへ一緒に出歩いた。

 寄席が好きだった母・登里を誘って、落語などを開きに行ったのもこのころであった。

 下町という土地柄もあって、教祖は浪曲(浪花節)をとくに好み、風呂の中で心地良くうなることもよくあった。それを聞いて家族が笑うと、「いいじゃないか、自分が好きでやるのだもの。」と言って、さらに大きな声でうなるのであった。

 その後、教祖の健康はとくに良くなったわけではないが、それでも家の中は明るさにあふれていた。相次ぐ病気、たび重なる失意を経験しながらも、そのたびごとに新しい未来をめざして立ち上がることができたのは、このような、心なごむ、温かい家庭があったればこそのことであったといえよう。

 そういうなかでの楽しみに、寄席とは別に、ときおり映画を見に行くことがあった。映画のことを、当時は「活動写真」と言い、明治二八年(一八九五年)、フランスのパリで初めて公開されてから、たちまちのうちに全世界へ広まったのである。教祖は当時のことを、

 「忘れもしない私が映画を観初めたのは十六七(明治三一、二年・一八九八、九年〈*〉の時だから、今から五十年位前〈**〉でまず最古のファンといえよう。その頃が映画が日本へ入った最初であった。もちろん一巻物で波の動きや犬が駆け出す所、人間の動作等で、今から思えば実に幼稚極まるものであった。それでもみんな驚きの目を瞠ったもので今昔の感に堪えないものがある。そうして一番最初の劇映画はフランス物で船員が航海から帰宅し、家庭内で何か事件があったがそれは忘れてしまった。一巻物で単純なものであった。それ等の映画は浅草公園の電気館といふ粗末な小屋でそれから間もなく説明者が出来たのが、有名な染井三郎である。」

と回想している。
      *( )内は編集者・挿入
      **この論文は昭和二四年八月三〇日発行者作物に集

 映画が日本に輸入されたのは明治二九年(一八九六年)のことであるが、それは箱の上部にあけられた窓から、中を覗いて画面を見るという一種の覗き眼鏡であった。ところが半年後の三〇年(一八九七年)春には、大きな垂れ幕に画面を映写するシネマトグラフが輸入された。 
その画面の迫力で多くの観客を集めたのである。東京で初めて上映されたのは、明治三〇年(一八九七年)三月のことで、場所は神田の錦輝館であった。それからは零細な興行師があちこちと会場を借りて、輸入フィルムのごく短い映画を何本か携え、大都市はもちろんのこと、全国を上映して歩いたのであった。教祖が初めて見た映画はそのようなものの一つであったと考えられる。まだ原初段階の映画であったとはいえ、フィルムによって目〈ま〉のあたりに展開する動きのある世界の人物・風物は、日本という島国からほとんど外へ出ることのなかった当時の一般民衆にとって、大きな驚きであり、尽きない興味をかきたてられるものであった。