日本橋・京橋・築地

 明治三二年(一八九九年)四月、喜三郎は浅草千束町から、日本橋浪花町へ移り、ここで古物商の店を開いた。このあたりは現在、商業の一大中心地であるが、明治三〇年代も同様であった。ことに、明治二七、八年(一八九四、五年)の日清戦争の勝利は、人々の心に自信と明るい希望を与え、日本の経済は飛躍的な発展を遂げることになった。当然、日本橋界隈もまた大いに活況を呈したのであった。

 姉の志づが貸席「静月」を引き継いだのはこのころであったが、しだいに繁盛し、人手が足りなくなってきたので、父親の喜三郎に助力を求めたのである。

 そこで一家は、日本橋からさらに静月のある京橋区木挽町九丁目一八番地(現在の銀座六丁目)に住居を移し仕事をみなで応援するようになった。教祖も病が快方に向かうと養生のかたわら会計を手伝ったのであった。

 木挽町は、今は銀座に併合されているが、そのころ、農商務省、逓信省などの官庁があり、小さな川を越えた隣りの町々には多くの新聞社、銀行、大会社などが軒を並べていた。こうした地の利を得ているうえに、二階建てで十幾つの部屋を持った静月は手ごろの貸席としていつも常連の客で賑わっていた。

 明治三五年(一九〇二年) の電話帳には、  
 新橋二〇三三番 岡田しづ 静月京橋区木挽町九丁目十八

と出ている。当時の電話の加入者は、今日とは比較にならぬほど少なかった。第一加入料が金一五円、電話使用料が年額六六円であったから、電話を引けるほどの家はごく限られていたのである。当時の物価は、米一升が一五銭、盛り、かけ蕎麦〈そば〉一杯が一銭八厘くらいの値段であったから、その値打ちがわかるというものである。

 しかし、志づは静月の経営を始めて数年、明治三五年(一九〇二年)二月、急性肺炎のため突然亡くなってしまった。享年二九歳、貸席の女将として、脂の乗り切ったこれからという時であった。志づには彦一郎という名の一人息子があった。母親に似て聡明なこの少年を、教祖はわが子のようにかわいがり、後には引き取って養育することになる。彦一郎はやがて気骨の坐った男らしい少年に成長し、教祖はその将来に大きな期待を寄せるようになった。

 志づの死後間もなし、喜三郎は、貸席業は女のする商売であると考えて手を引き、静月の店を売って家作を建て、自分たちは隣り町の築地二丁目二七番地へ移った。こうして、ひっそりと仕舞〈しもた〉屋(商売をしていない普通の住宅)住まいを始めた。一方、教祖は二〇歳を過ぎ、ゆくゆくは父の夢であった書画、骨董屋の店を父と二人で開きたいと考え、そのための勉強を始めていた。

 そのころの教祖は夕食後、片道七、八町(約八〇~九〇メートル)の銀座通りの散歩を日課としていた。しかし、これはただの散歩ではなく、沢山並んでいる夜店を見て歩き、とりわけ古道具屋の店先では品物を手に取ってよく見るのであった。そうして家へ帰ってから父に、「今日はこういうものが売りに出ていたが、あれは古くて値打ちものだと思いますが、どうでしょうか。」
といって尋ねたりする。たまには、これはと思う良い品物を買って帰り、家中で、あれこれと批評し合って、評価を確かなものにする。そのようにして、しだいに骨董品に対する鑑識眼を養っていったのである。これはやがて、広く美術一般に対する鋭い鑑賞眼・審美眼を培うこととなり、後年の優〈れた美術品の蒐集、さらには美術館の建設へと結実していく貴重な体験であった。