小間物商「光琳堂」

 喜三郎は、亡くなる前に、遺産として、兄には家作を、弟には身を立てていく資産として現金三五〇〇円を与えた。この額は昭和五五年(一九八〇年)度の物価に換算して、約八五〇万円になる。父の配慮と愛情のお蔭で、商売の元手には困らなかった。しかし、父亡き今、経験の浅い教祖一人で古美術商を営むには冒険にすぎた。画家になりえず、さりとて古美術商への道も閉ざされた今、一体自分は何をすればよいのか。天を仰いで絶叫したい心境であったであろう。かくして、教祖は三度も人生の選択を迫られる羽目に陥り、まったく途方に暮れたのであった。

 そんなある日、いつも出入りしている知り合いの人が来て、「桶町の西仲通りに小間物屋の売り物がありますが、どうでしょう。」と声を掛けてくれた。確かな人の話であるうえに、何より場所が良い。西仲通りといえば、日本橋から銀座に至る大通り(現在の銀座通り)をはさんで、東仲通りと並ぶ、なかなかに賑やかな商業地域である。

 小間物屋というのは、婦人の化粧用の紅、白粉や櫛、簪(かんざし)などといった細々したものを商うものであるから、教祖は躊躇して、「小間物のことはさっばりわからないから──といったんは断わったが、かたわらから母の登里が、「いいよ、お前、わからないところは私が見てあげるから、そのお店引き受けたらどう。お父さんが亡くなって、目利きの難しい骨董屋を始めるよりも、いっそ小間物屋を始めたら。」と助言した。母の励ましに動かされ、それでは、と教祖も決心して、店の権利を譲り受けたのであった。

 教祖が築地の家から、京橋区桶町一一番地にあるその店に、身の回りの荷物を持って母とともに移ったのは、喜三郎の四九日の法要を滞りなく済ませ、岡田家の生活が落ち着きを取り戻して間もないころのことであった。

 桶町一一番地は、現在では中央区八重洲二丁目と京橋二丁目を区切る路上にあたる。東京駅の駅前を通る外堀通りと、高島屋や丸善の本店などが並ぶ大通りにはさまれた繁華な商店街で、商売には選り抜きの立地条件の場所であった。

 そのころ、外堀はまだ埋めずに残されており、かたわらを市電(路面電車)の外堀線が走っていた。初夏の候ともなれば、家の開いた窓からはいる水面を吹いてくる涼風に、江戸城の昔が偲ばれたことであろう。

 その店は、九尺(約二・七メートル)間口の小さな借家であったが、それだけに、近所の女房や娘たちが気安く買いに来そうな店であった。教祖はこの店の屋号を、日本の代表的な画家の一人である尾形光琳に因んで「光琳堂」と名付けた。

 教祖は、かねてから尾形光琳の作品を最高の芸術として敬愛していた。そこで蒔絵を習い、制作するにあたっても、光琳の芸術を現代に生かすことをみずからの目標としたのである。

 したがって教祖は小間物店を開店するにあたって、以前からの念願どおり、自作の蒔絵を商品として並べるとともにみずからの美の理想と仰ぎ、心底熱愛してやまない光琳の名を取って、新しく経営する店の名としたのである。

 当初は戸惑いを感じながら始めた商売であったが、ひとたび開店するや教祖はこの仕事に没頭した。朝は早いうちに起きだして店の掃除をし、商品の仕入れに行って帰ってきてから、早早に店をあけて客の応対をするという毎日である。まったく経験のない世界であるから、初めは品物の名前も使い道も一向にわからない。小間物屋といえば化粧品から装身具まで、何くれと品数が多い。それを一つ一つ覚えていくのは容易でなかった。しかし教祖は、母の登里に尋ねながら、梳油(すきあぶら)一個、元結**一束〈もとゆいひとたば〉のお客にも心を込めて、
 「へえ、いらっしゃい。」
 「ありがとうございました。」
と頭を下げ丁重に挨拶を怠らなかった。店はしだいに繁盛しだした。そして、間もなく手が足りないくらいに忙しくなったので、父・喜三郎が生前行きつけにしていた、近所の床屋の高橋源太郎の娘・うめを雇ったのであった。
    
  * 髪を梳〈す〉く時に用いる練りあぶら
  **髪を束ねる細い紐、または紙縒〈こより〉

 そのころのことである。親戚の中の苦労人で教祖に忠告する者があった。教祖はその思い出をつぎのように書いている。

 「その人の曰く。『お前のような馬鹿正直の人間は世の中へ出た処で成功しっこない。何故なら、今の世の中で成功する奴は嘘をうまく吐き、三角流*でなくては駄目だ。』と散々言はれたので、私もなるほどと思ひ、独立してから一生懸命嘘を巧くつくように努めてみたがどうもうまくゆかない。そればかりではない常に心の中は苦しくてならない。その結果『俺といふ人間は嘘は駄目だ。成功しなくてもいいから本来の正直流でやらういと決心し正直流で押し通した。ところがこれは意外実にうまくゆく、気持がいい、人が信用する、といふ三拍子揃ってトントン拍子に発展し、終に一文なし同様の小商人から十年位経た頃、当時としては異数**の成功者と言はれた程で、十数万円の資産家になったのである。」

 *  義理、人情、交際の三つを欠くこと一三欠流    
 ** ごく数の少ない稀な

 しかし、商売の発展とは裏腹に、教祖は光琳堂時代にまた一つ大きな失意を経験した。それは蒔絵の制作を断念せぎるを得ない事態に立ちいたったことである。

 すでに記したように教祖は新たに開業した小間物屋の一隅に、自作の蒔絵製品を並べた。また、それに合わせて、みずからデザインして職人に作らせた蒔絵の品も並べたのである。ところがある日、ふとした怪我がもとで右手の人差し指の筋を切り、指が曲がらなくなってしまったのである。蒔絵の場合には粉のはいった筒の先を、右手の人差し指で軽く叩きながら蒔いていく。このように手先の微妙な感覚が要求される蒔絵の技術にとって、いわば右手の人差し指は死活を制する生命なのである。もはや、どうしても蒔絵の制作を諦めるよりほかはなくなった。

 若き日の教祖は、蒔絵への意欲をかきたてていた時だけに、自由を失った右手の指を見つめながら、どんなにかやり場のないくやしさ、悲しさに沈んだことであろう。