父の死

 教祖が両親や兄夫婦、そして姉・志づの遺児・彦一郎とともに、明治三五年(一九〇二年)から数年間、青春の日々を過ごした築地は、東京の南東、堀割に囲まれた町並みで、東京湾の潮の香が間近に漂う海岸地帯の一画にある。この築地のすぐ南に、佃煮で有名な佃島があるが、これは隅田川が土砂を運んで作りあげた砂州である。現在では埋め立てが進んで、さらに沖合に晴海が生まれ、人工の埠頭には大型の貨物船も数多く横付けされている。しかし明治の未ごろは築地の隣りの南小田原町から、佃島と並ぶ月島へ、伝馬船(荷物などを運ぶ小船で甲板〈かんぱん〉がなく木製)が通っており、「勝鬨の渡し」と呼ばれていた。

 第二次世界大戦の敗戦まで、この築地には海軍大学校や軍医学校、経理学校が並び、帝国海軍を担う若き逸材が、ここから輩出していった。また、大正一二年(一九二三年)九月一日の関東大震災後、日本橋の袂から移転した魚市場が、その後さらに規模を拡張し、現在では、全国はもとより世界各地から送り込まれる水産物で賑わう世界長大の卸売市場となっている。

 ところが、教祖一家の住まいのあった築地二丁目のあたりは、民家が静かに並ぶ住宅地であって、すぐ西隣りには京都西本願寺派の別院、築地本願寺があった。ここには、尾形光琳の残した画風に心を寄せ、いわゆる琳派を江戸で復興した江戸時代後期の酒井抱一*の墓もあり、江戸情緒をなお色濃く残している地域であった。
  
 *抱一がいかに深く光琳に傾倒したかは、光琳の死後百年忌にあたって、京都にある墓を修築し、その遺作展を催し、また、『光琳百図』を著わしていることでよくわかる。教祖は光琳を仰慕し、後に昭和二九年(一九五四年)、立春の良き日に、積年の念願であった光琳の代表作「紅白梅図屏風」(世界救世教所蔵・国宝)を入手したが、このような深い緑は、抱一の眠る場所との地縁が早くからあったことを思いあわせると、その不思議さに心うたれるものがある。抱一との縁の糸は、こればかりではない。抱一は姫路城主、酒井家の出であったが、その兄・酒井忠以の下屋敷が教祖の誕生地のほど近くにあった。そして教祖の生家の家主・坂倉屋は、江戸時代、酒井家に出入りして、抱一の絵を一枚貰い受けているのである 教祖が蒔絵を勉強し、また父・喜三郎と一緒に古美術商を営もうとして美術品を見る眼を養ったのは、じつにこの築地時代であった。そうして親子三代、六人の生活を支えていたのは、姉・志づの残した静月を売却し、その金を元にして建てた家作からの収入であった。

 けれども岡田家の静かな生活は、やがて大きな曲がり角を迎えることになった。大黒柱の喜三郎が亡くなったのである。明治三八年(一九〇五年)五月二二日のことであった。時あたかも、大国ロシアを相手にした日露戦争のさなかであり、喜三郎が亡くなった数日後には、かの日本海海戟が戦われたのであった。

 喜三郎は、日ごろからあまり丈夫ではなかったが、どうもおかしいというので医者にみてもらうと、心臓が大変悪いという。それで養生につとめたが、しだいに病状が進み、そのまま二度と起き上がることができなくなった。喜三郎は病床につく直前、五三歳の誕生日を迎えたばかりであった。父の死について、後に教祖はつぎのように語っている。

 「非常に早死にだったのです。なんでも便秘をなおすために二、三十年間大黄という薬を毎日一日も欠かさずのんでいたのです。のまないと便秘をして気持が悪いので続けていたのです。それで死ぬ前に心臓病になって、医者にみせたら、半年くらいしかもたないと言われて、やはりそれから数カ月たってから死にました。」

 一四歳で明治を迎えた喜三郎は、一生の大半をめまぐるしく流動する明治の世に過ごしたが、その性格、趣味、生き方などを考えれば、むしろ江戸時代の人であったといえるような人物であった。志と才覚さえあれば、身分の低い武士の子弟といえども一国の宰相ともなり得たし、一介の書生といえども巨万の富を築くことができた明治は、ある面で大変激しい競争の社会であったから、実直一途の喜三郎にとって、必ずしも暮し良い時代ではなかったであろう。江戸の下町の由緒ある質屋の跡取りに生まれ、洗練された趣味を身に付けた喜三郎にとって、望ましい生き方はといえば、むしろ落ち着いた世相の中で、静かに書画や骨董を楽しみながら、大店の旦那として、律儀で凡帳面な一生を送ることであった。

 しかし、歴史の大きな流れは、嵐のあとの濁流さながらに、滔々〈とうとう〉と、ものみなすべてを押し流した感がある。そして喜三郎は、泡沫〈うたかた〉のように、浮き沈みを繰り返しながら、浅草から日本橋へ、日本橋から京橋へと移り住んだのであった。最後の築地での生活は、結婚以来苦労の絶えなかった彼の後半生の中で、もっとも幸せな日々であった。この時に喜三郎は、長い間身に付けてきた芸術の素養を、二人の息子に分かち与えたのである。

 教祖も、兄の武次郎も、この父から芸術的天分を豊かに受け継いでいる。教祖が小さい時から絵筆に親しんでいたことはすでに記したが、兄・武次郎も本業である小間物商のかたわら、「武春」と号し、日本画を描くことを趣味としていたほどである。

 父は、その子供たちの芸術的才能を認め、これをはぐくみ、励まし続けたが、その大成を待たずして惜しくも世を去ってしまった。実の親として、その芸術的天分を血脈に残したばかりでなく、子供たちが生長し美術を志した時にはその良き理解者となり、また、古美術商を開くための良き指南役ともなった。そうした父こそは、何ものにも代えられない、教祖たちの支えであったのである。それゆえにこそ、父を失った教祖の悲しみは深く、尽きることはなかった。