父の死
教祖が両親や兄夫婦、そして姉・志づの遺児・彦一郎とともに、明治三五年(一九〇二年)から数年間、青春の日々を過ごした築地は、東京の南東、堀割に囲まれた町並みで、東京湾の潮の香が間近に漂う海岸地帯の一画にある。この築地のす …
小間物商「光琳堂」
喜三郎は、亡くなる前に、遺産として、兄には家作を、弟には身を立てていく資産として現金三五〇〇円を与えた。この額は昭和五五年(一九八〇年)度の物価に換算して、約八五〇万円になる。父の配慮と愛情のお蔭で、商売の元手には困ら …
結婚
光琳堂は、無経験から始めた商売であり、先行きのことはまったくわからなかった。けれども母の助けを借りながら、正直流をモットーにして一生懸命商売に励んだので、しだいに繁盛して、店はいつの間にか手狭になってきた。そこで、半年 …
商いの拡張
小間物小売商・光琳堂を始めてから約一年半、教祖は明治四〇年(一九〇七年)二月に、京橋区南槇町の自宅を店に改め、ここで問屋商売をすることにした。光琳堂の時は化粧品も、装身具頼も商っていたが、今度は装身具だけに限った卸問屋 …
商品の開発
このようにして岡田商店は順調に軌道に乗り出した。教祖は指の怪我以来、自分で製品を作ることはなくなったが、その経験を生かして、櫛、簪、笄(髪の毛をかき上げるための細長い化粧道具)などのデザインの研究に没頭し、それを職人に …
岡倉天心をたずね
岡田商店の開店後間もなく、教祖は装身具の研究、制作に没頭し、あらゆる機会をとらえて研鎌を積んだが、なかでも特筆すべきものは東京美術学校の設立者の一人、岡倉覚三(天心と号した)を訪問したことである。 岡倉天心は、明治期 …
母の死
教祖の成功を誰よりも喜んでくれたのは、ほかならぬ母の登里であった。登里が嫁に来たころには、まだ岡田家には、曲がりなりにも、幾ばくかの財もあり、土地もあった。それがすっかり没落して、ずいぶんつらい思いもしたが、末息子が成 …
病苦遍歴
教祖は、幼いころから腺病質の虚弱児で、東京美術学校入学直後には執拗な眼病を患い、さらにはまた肋膜炎から肺結核にいたるというように、その青春時代はまことに病の連続であった。 兄・武次郎の妻・すえは当時を回想して、 「 …