三越との取り引き

 教祖は若いころから“正直”ということを重んじていた。とくに実業についてからは、より一層徹底して、正直流をモットーにしたのである。それが幸いして岡田商店は大きな幸運をつかむことになった。

 登里が亡くなってから間もないころのことである。三越の仕入部に勤務する高橋繁治と名乗る男が通りすがりに店を訪れて、
 「じつは、このたび仕入部に配属になったのですが、小間物については、サッパリわかりません。あなたはきっと、あちこちの小間物屋さんをよく知っていらっしやることでしょう。ぜひ、ひとつ聞かせてください。」
と言う。教祖は
「私もあまり経験はないのですが、知っている限りのことをお教えしましょう。」
ということで、某所の某店は何が特色である。何と何を扱っている。図案がいい。こういうものはこの店で買いなさい、というように、懇切丁寧に教えたのであった。高橋は、「大変参考になりました。有難うございました。」と、札を述べて帰ったが、その後しばらくしてふたたびたずねてきて、
 「先日はお話をうかがって大変有難かったのですが、今日はひとつお願いがあってきました。
というのは、あなたは商売人としてじつに珍しいお方だ。たいていの人は、三越と問いただけで、なんとか自分の店と取り引きを成立させようと、手前味噌を並べるものだが、あなたは自分の店のことは一言もロにせず、他店の特色をあげ、しかも親切に教えてくださった。これはまったく商人根性を離れておられ、私はその立派な人格にうたれました。ぜひ取り引きしていただきたい。」
という申し入れであった。

 事実、三越といえば、明治三七年(一九〇四年)に三越呉服店として創業したが、やがてその経営を改め、日本最初の百貨店として、日本橋の目抜き通りに誕生したものである。その格式と信用は、日本の小売業界の中でも第一級のものであった。したがって、三越と取り引きがあるという、ただそのことだけで、問屋の信用は大いに増したのである。しかも小間物は呉服に深いつながりをもち、三越では伝統的にもっとも強い部門であるから、小間物問屋にとって、これ以上の良い得意先はなかった。その三越の仕入部の担当者が釆たのであるから、普通であれば頭を下げ、身を低くして自分の店の商品を売り込もうとするのが人情というものであろう。ところが教祖は、そうした欲得を越えて、じつに淡々と、しかも行き届いた応対をしたのである。

 一方、高橋もまた、子供のころから丁椎(年季奉公物である。裏表のない、気骨あふれる、人情肌の人であったという。教祖の正直一途の心意気は、そうした高橋の心を強くうち、彼を通して、三越との取り引きが始まったのであった。