病苦遍歴

 教祖は、幼いころから腺病質の虚弱児で、東京美術学校入学直後には執拗な眼病を患い、さらにはまた肋膜炎から肺結核にいたるというように、その青春時代はまことに病の連続であった。

 兄・武次郎の妻・すえは当時を回想して、
 「私が結婚した明治三四年 (一九〇一年)のころ、岡田家は不自由ない暮しになっていましたが、当時一九歳だった義弟・茂吉さんの病弱が悩みでした。結核の予後もあり、眼も悪かったようです。『物が二つに見える』と言って、小石川の明々堂という眼科医へ随分長いこと通っていました。そのころは身体の調子がいいという日は一日もなかったようでした。」と語っている。

 その後、自立してからも、三二、三歳(大正四、五年・一九一五、六年)ころまでは、さらにいろいろな病気を患ったのであった。後年、教祖は「婦人病以外は大体やっている。」と語っているほどである。

 小間物商・光琳堂を始めて半年くらいたったころ、慣れない商売と、店の責任者としての忙しさから、教祖は重い脳貧血にかかった。電車通りに出ると、そのやかましい金属音のために眩暈がして倒れたり、また、ほんの一〇分間も人と話をしていると、口がきけなくなるという具合で、その苦痛は尋常ではなかった。二、三か月にわたって医療を受けたがよくならない。そんなある日、灸療法を勧めてくれる人があったので、試しに治療に通ううち、しだいに快方に向かってきた。さらにその先生から散歩を勧められ、毎日少しずつ始めたところ、だんだん力がついてきて、晴天の日には一里(約四キロメートル)以上も歩き続けることができた。この運動の効果であろうか、さしもの重症の脳貧血も二、三か月で全治したのであった。

 しかし、教祖の病弱は、その後もしばらく続き、卸問屋を始めてからも年に数回くらいの割りで病気にかかったのである。なかでも、明治四二年(一九〇九年)、二六歳の時、重症の腸チフスにかかり、この時は遺言までしたほどの重態に陥った。後年、教祖は、つぎのように書いている。

 「自分でもとても助かるとは思えないので遺言をしたのです。それは前の家内の時で、 当時小間物屋だったが、〝自分はもう駄目だから、自分が死んだら商売は誰々に任して、こういうようにしろ″と言ったくらいですから、全然生の執着が取れたのです。」

 近くに名の通った岡田病院というのがあり、都合のよいことに教祖は院長の弟と知り合いであったので、とくに頼んで、普通はしない院長の往診を受けることができた。ところが、診察を終えると院長は、
 「これでは入院しても助かる見込みはない。助かる見込みのない者を、それを知っていて入院させるということは、私の病院の信用を落とすからお断わりする。」と、冷たく断わった。

 しかし、教祖の家は狭く、寝起きできる部屋は二部屋しかない。もしもの時、大勢の人が釆てくれてもどうにもならない。そこで、ふたたび無理に頼み込むとともに、院長の弟からも頼んでもらった結果、やっと入院が許可されたが、当時は自動車などという贅沢な乗り物はないし、人力車に乗るだけの体力もなかったので、やむをえず、ゆっくりゆっくり担架でかついで行ってもらった。

 「寝ながら町を歩いている人を見て、これで人を見るのも見おさめだと思ったのです。そうしたら夢とも現ともなく墓場が見えてしようがなかったのです。それで自分は駄目だと余計思われました。」
と後年、教祖は語っている。

 しかし、奇蹟は起こった。助からないと言われたのに、三か月ほどの治療で、重症腸チフスは、完全に治ってしまった。当時チフスに薬はないので、流動食だけでだんだん良くなったのである。死についての覚悟をし、生に対する執着をなくしたことによって、かえって教祖の前には、生きる道が開かれたのであった。

 しかし、苦しい病歴は、それからも一〇年続いた。小間物問屋の経営は、日の出の勢いで隆盛の一路をたどっていったが、毎年、教祖は次々と病気に悩まされなければならなかった。

 痔の出血で一か月入院したほか、胃病、リューマチ、神経衰弱、尿道炎、扁桃腺炎、頭痛、腸カタル、心臓弁膜症、歯根膜炎など数え切れないほどであった。

 それだけに教祖は、神経質なくらいに病気を恐れ、衛生に注意する毎日であった。店員の思い出話によると、ちょっとクシャミが出ても医者にみてもらうといった徹底ぶりであったという。また手洗いへ行って手を洗っても、他人と共用の手拭は絶対に使わず、手を振って乾かしてしまうし、三度の食事のあと、虫歯に詰めた脱脂綿の取り替えも一仕事であったという。

 このころ、教祖が病気を恐れるあまり、どんなに医学を頼りにしていたかは、つぎの自筆の文章にみても明らかである。

 「確か三十歳〈大正二年・一九一三年)*前後の頃だと思ふが、信州の山奥のある温泉場へ行った時の事だった。旅館に着くや否やイキナリ女中に向って、『この温泉場にはお医者が居るか』と訊くと、女中は『ハイ、一人居ります』 私『普通の医者かそれとも学士か』女中『何でもこの春大学を出たとかいふ話です』
 それを聞いた私は、これなら二、三日位安心して滞在出来ると、腰を落着けたのである。」
 
*( )内は編集者・挿入

また、同じところでこのようにも書いている。

 「人間はいつ何時病気に罹るか分らないから、そういふ場合夜が夜中でも電話一本で飛んで来てくれるやうな親切なお医者さんを得たいと思っていたところ、ちょうどそういふお医者さんが見付かったので、出来るだけ懇意にし、遂に親類同様となってしまった。現在の私の妻の仲人は、そのお医者さんであった位だから、いかに当時の私は、医学を信頼していたかが判るであらう。」

 そのお医者というのは、京橋区大鋸町で内科病院を開いていた医師・松本章太である。教祖とはいつごろからの交際かは不明であるが、妻・タカの兄・広吉が大正四年(一九一五年)に腸チフスにかかった時、教祖はすぐに松本医師と看護婦を帯同し、タカの実家に急行して手厚い看護をしていることから察すると、そのころすでに相当深い付き合いであったことは容易に想像されるのである。

 教祖が患ったいろいろな病の中でも、とくに苦痛がひどく、長く続いたのは大正三年(一九一四年)から五年(一九一六年)にかけての歯痛であった。
 「一本の歯の痛みさえつらいのに、毎日四本も痛むのだから堪らない。」

と、教祖は後年語っているが、そういう激痛が、一年余も続き、東京帝国大学付属痛院をはじめとして、飯田橋の歯科専門の医院まで、東京中の有名な病院はほとんどすべて回ったが治らなかった。そして歯痛は、とうとう、教祖の生存を脅かすほどに激烈な苦しみとなった。教祖は、
 「それで、頭が段々変になって来て、発狂するか、自殺するか、どっちかの運命だ。と言うどん詰りになった。」
とも述べている。

 そんな時、アメリカで長く開業していた有名な歯科医が帰国したので、さっそくその門を叩いて、一年間も通ってあらゆる手を尽くしてもらったが、しかし、蝕〈むし〉ばまれた歯はますます悪化するばかりで、しまいには、
 「私の知っている限りの薬はみな使ったから、これ以上は、友人が今度アメリカから持ち帰ってくる新しい薬に望みをかけるほかに方法はなくなった。」と、医師のほうが匙を投げる始末であった。しかし、この時もまた不思議なことが起こった。それは、知り合いの人が、日蓮宗の行者を紹介してくれたのである。毎日毎晩の苦しみに、もうとても我慢のできなくなっていた教祖は、その行者の言うように、一週間だけ試してみるつもりで医者通いを休み、東京から横浜の行者の家へ通って行った。どういう治療であったかは明らかでないが、そうしているうち、四日目の帰りがけ、電車に乗っていると大変気分が良くなってきた。痛みが薄らいで、もう何か月も経験したことがないほどの爽快な気分となった。その時ふと、教祖の脳裏に一つの考えが浮かんだ。

 それは、痛みの原因は薬ではないかということである。歯痛が治らなかったのは、薬がその原因ではないか。痛みを止める薬が、かえってそれ以上の痛みを起こしていたのではないだろうか――そう考えた教祖は、横浜の行者の家へ通うのをやめるとともに、それまでかかりつけてきた歯科医の門をくぐることも、ぷっつりとやめた。この長く苦しい体験を通じて、みずからの身体によって薬の恐ろしさを覚った。病気を治すはずの薬が、じつは病気を作っているということを体得したのであった。