商いの拡張

 小間物小売商・光琳堂を始めてから約一年半、教祖は明治四〇年(一九〇七年)二月に、京橋区南槇町の自宅を店に改め、ここで問屋商売をすることにした。光琳堂の時は化粧品も、装身具頼も商っていたが、今度は装身具だけに限った卸問屋──「鼈甲(べっこう)・金属装身具 卸商 岡田商店」として発足したのであった。

 ズブの素人から始めた光琳堂は、確かに順調に発展し、繁盛していたので、小売店経営について、教祖は多少の自信を得たかもしれない。しかし、なんといってもまだ二年足らずしかたっていないし、そのうえ、今度は小売りではなく卸問屋である。これは大変な、賭けにも等しい冒険というべきであろう。病弱のため、消極的、慎重な性格の教祖が、普通の人なら敬遠するような、この勝負に挑んだのはよほどの成算があってのことに違いない。

 教祖はかつて、『実業之日本』誌などで読んだ多くの実業家の成功談を思い浮かべながら、自分はけっして小商人では終わらぬ、きっと大成してみせる──と、強く思い、小間物商を営む間にも、いろいろとその計画を練ったことであろう。そして、「よし、これなら大丈夫」という勝算があったからこそ、一見無謀にもみえる卸問屋開業に踏み切ったに違いないのである。その勝算の内容について、教祖自身の記述はまったく残っていないが、少なくもつぎの三点が考えられる。

 その一つは、問屋となれば、元手はもちろん、相当な運転資金の必要なことはいうまでもない。その金策の見通しがあったこと。二つには、父・喜三郎から受けた日ごろの指導を主にし、今まで身に付けてきた鋭い美的感覚によって、何が女性の装身具としてふさわしいか、それを見抜く目に自信があったこと、そして三つ目は、木村金三という、まさに打ってつけの協力者を得たことであった

 木村は静岡の生まれで、上京して小僧から叩きあげ、当時、年はまだ二〇歳そこそこであったが、日本橋の小間物卸商・西浦商店の中番頭をつとめていた。品物を納めに光琳堂に出入りしていたので、教祖は木村の人柄と手腕に非凡なものを感じていた。間もなく、その西浦商店がつぶれてしまったので、木村を岡田商店に迎え入れることにしたのである。木村は問屋の中番頭であったから、問屋の商いについて豊かな経験を持っている。そのうえ、岡田商店も前の店と同種類の品物を取り扱うので、販路に明るく、得意先にも顔が広いという、多くの利点があった。教祖は自分の能力と、木村の利点とを一致させることによって、事業の成功を確信したに違いない。

 余談であるが、問屋を始めるにあたって、教祖は兄・武次郎を立会人に木村との間に正式の契約を結んだが、その契約書は木村家の家宝として、今日も大切に保存されている。

 それによると、三円の固定給に加え、毎月の売り上げの中から一割を歩合給として木村に支払うということが決められていた。

 この契約は三年後に改められたが、歩合制の給与形式はその後もずっと踏襲されたので、売り上げが大きくなるにつれ木村の受け取る金額もしだいに大きくなり、しまいには店主である教祖の収入と肩を並べるほどになった。大正六、七年(一九一七、八年)ごろの最盛期には、木村の手取りは月々一〇〇〇円にも達した。当時は月五〇円あれば、若夫婦二人が一か月十分に生活できたのであるから、その報酬の大きさが知られるというものである。

 しかし教祖は、木村の収入の増加を喜びこそすれ、そんな金額にはとらわれず、終始変わることなく木村を厚遇した。木村もまた、この教祖の心に応え、すべてを捧げて尽くしたのであった。

 木村は店から戻ると、いつも家族に向かって店主である教祖のことを話して聞かせた。その時は、必ず態度を改め、襟を正して話をするので、言葉の端々にも教祖に対する尊敬の念がにじみ出ていたという。木村がこのような言動をとったのは、ただ単に、特別の待遇を受けたからというだけではなく、教祖の人間味、──なかでもそのスケールの大きさや、温かな人柄、また、洗練された美の感覚に深く魅了されていたからであった。

 開店当初の岡田商店は、店のマークに、岡田茂吉の茂を円で囲んだΙを用いたので、マルモさんとも呼ばれていた。岡田商店を開いてからも、しばらくの間、光琳堂の経営は母や高橋うめに任せていたが、やがて問屋の方が順調に発展してから、今までの働きに応え、光琳堂の権利を無償で高橋うめに譲ったのである。

 教祖が京橋区南填町に問屋を開いた明治四〇年(一九〇七年)は、日露戦争が終わって二年目にあたる。ヨーロッパとアジアという、二つの大陸にまたがる大国ロシア帝国に勝って、日本の国際的な地位は一躍向上し、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、ロシアに並ぶ一等国として、アジアの小国日本は国際的な地位を高め、大国に伍して、引けを取らぬ発言力をかち得るまでに国威は発揚した。

 しかし他面、一〇〇万の陸軍を動月し、当時の金で一七億円の戦費を費やした大戦争は、近代化途上の日本の経済を大きく圧迫した。農村は農民の子弟の多くを戦場に送ったため、その労働力を奪<うば>われて大きな打撃を受けた。その結果一〇年前の日清戦争の場合と異<こと>なり、日露戦争の勝利は景気の回復に結び付かなかった。国内では不況が続き、企業間の吸収合併が進んで、三菱、三井などの財閥がその地位を固めていく一方で、一般民衆の生活は必ずしも容易ではなかった。それだけに、こうした経済事情の中で、岡田商店を飛躍的な発展に導いた教祖の経営の手腕は、その美的感覚とあいまって並々ならぬものがあったといえるのである。