母の死

 教祖の成功を誰よりも喜んでくれたのは、ほかならぬ母の登里であった。登里が嫁に来たころには、まだ岡田家には、曲がりなりにも、幾ばくかの財もあり、土地もあった。それがすっかり没落して、ずいぶんつらい思いもしたが、末息子が成人し、昔のあの繁栄がまた岡田家をおとずれたのであった。このまま順調に発展してくれれば、喜左衛門の時代を遙かに上回る隆盛になるだろうと期待できた。登里は、「この子はどこか普通の子と違う」と思い続けてきた自分の気持ちが、単なる母親の欲目ではなかったことを嬉しく感じたに違いない。と同時に、この様子を夫の喜三郎に一目たりとも見せたかったと残念に思ったことであろう。しかし、その人はすでにこの世にいなかった。

 また、おおらかな姑でもあった登里は嫁のタカが気に入って、その内助ぶりを頼もしく思っていた。あるときタカの母のいわ〈ヽヽ〉に、
 「タカさんが嫁に釆てくれてから、商売に運が向いてきて、どんどん発展します。」
と言った。すると、日ごろから教祖の手腕を見抜いているいわ〈ヽヽ〉は、
 「いいえ、それは茂吉さんが偉いからですよ。」
と答えるといった親同士のほほえましい会話がかわされていた。

 女中も二人置き、晩年の登里は何不自由ない生活であった。きっとそれまでの埋め合わせを一度に受け取る思いであったろう。

 明治四五年(一九一二年)の五月、登里は父・貞斎の故郷である信州の須坂の親類の家へ遊びに行った。須坂の親戚の中には、岡田商店の店月として東京へ働きに釆ている者もあって、付き合いは日ごろから深かった。教祖もときに須坂へおもむき、伯母のかつ〈ヽヽ〉が経営する料亭「松ケ枝」に旅装を解いて、さらに須坂から奥へはいった山田温泉に遊んだものであった。教祖が常宿にしていた「藤井旅館」は、「風景館」という名で今も続いている。

 登里が須坂へ行って一月ほどしたころ、登里から東京へ帰るという電報が届いた。教祖はちょうどそのころ、店員を連れて関西へ旅行中であった。

 上野で汽車を降りた登里の顔色は、出迎えに釆た武次郎と、嫁のすえ〈ヽヽ〉が思わずハッとしたほど青白かった。二、三日して医者にみてもらうと、腎臓炎との診断であった。床についてから登里の容態は急激に悪化した。日ごろの気丈な性格にも似ず、 「どうも今度は駄目なように思うから、茂吉を呼んでおくれ。遺言したいこともあるから。」と言う。さっそく旅先へ電報を打ったが、あいにくなことに出発したそのあとへあとへと電報が届き、ついに連絡をとることができなかった。登里は教祖の帰りをひどく待ち焦がれ、口を開けば、
 「茂吉はまだなのかい。」
と聞く。看病している武次郎とすえ〈ヽヽ〉、タカ〈ヽヽ〉の三人も気が気ではなかった。

 そのうちに、何も知らずにひょっこり教祖が帰って来た。うつうつとしていた登里は、一瞬しっかりとした顔になって、その姿を一目見るなり、
 「ああ茂吉、帰って来てくれたのかい。」と言ったが、それが登里の最後の言葉となった。愛する息子を見るまではという、母の思いが、とうに事切れるはずの命を一日延ばしにこの日まで、永らえさせていたのであろう。

 それにしても、登里には言い残しておきたいことが数多くあったはずである。みなは、こんなことなら、もっと早く合わせるようにすればよかったと今さらながら悔やまれてならなかった。登里がこの世を去ったのは明治四五年(一九一二年)五月二五日、享年五七歳、夫・喜三郎の七年目の命日を過ぎてから三日後のことであった。

 登里は表に立って物事を切り回すという性格ではなく、むしろ男に寄り添って陰から支えていくという、目立たない、しかし、気性のしっかりした婦人であった。長い貧困の時代も、登里の力があればこそ乗り越えることができたのである。少々気難しいところのあった夫を助け、小さな子供を育てながら、栄養失調になってまで家を守り抜いた姿には、本来弱いはずの女性が持つ、不思議なたくましい生命力が感じられるのである。子供のため、また家族全体のために無私になって献身する典型的な母性愛の持ち主であった。優しさと芯の強さが揮然一体となった女性のたくましさを身に付けた稀有な人柄であった。

 登里の粘り強さには、郷里、信州がもつ雪国特有の耐忍の精神、風土、寒冷の山国の血を感じさせる。長く厳しい冬を耐え、もひとたび雪が解けて暖かくなれば、春から夏へかけ、稲作に、山仕事に精を出し、やがて、収穫の秋を迎えて、来たるべき冬に備えて蓄える――そういった生活は、派手さこそないが、逆境に強い、不屈の気質を作りあげたのである。

 また、教祖の一生は、行き詰まっても、倒れても、ふたたび立ち上がって歩き始める、強靱さに貫かれているが、それは、この母から受け継がれたものであろう。

 母が亡くなった三、四日は、葬儀のあわただしさもあって、静かに思い返す機会もなかったが、初七日を済ませるころから、教祖は改めて、深い悲しみの中に亡き母の愛情を偲んだのであった。

 有難かったことの一つは商売が大変順調にいき、後々を案ずることなく母が亡くなったことである。それというのも、思えば登里のお蔭であった。母の励ましがなければ光琳堂を始めることはなかったであろうし、光琳堂を開かなければ後の岡田商店の繁栄はありえなかったのである。さらには、失意の多かった青春時代、教祖の悲しみを思って心を痛めてくれた母、またいつも変わることなく才能を信じて力付けてくれた母、現人〈うつせみ〉の失われた今、その母の存在は限りなく大きなものに感じられたのであった。