書籍

二人の老人の話

 一家が千束町に住んでいたころ、近所に二人の老人がいたが、教祖はこの二人から、犯した罪の報い、人間の運命について、大変鮮烈な印象を受けたのであった。  一人は教祖の父親・喜三郎の商売仲間の、花亀という老人であった。この男 …

東京美術学校

 明治二九年(一八九六年)三月、普通では八年間かかるところを、一年短縮した七年間で浅草尋常高等小学校高等科をめでたく卒業することができた。教祖一三歳の春のことである。その時の「卒業生名簿」には、二九名全員の卒業後の進路が …

闘病の明け暮れ

 美術学校へ入学した一四歳から二〇歳ごろまでは、普通の若者にとっては、命の躍動を享受する、文字通り青春時代ともいうべき時期にあたっていたのに、教祖にあっては、病に明け暮れる灰色の日々であった。   眼病は、二年ほどかかっ …

日本橋・京橋・築地

 明治三二年(一八九九年)四月、喜三郎は浅草千束町から、日本橋浪花町へ移り、ここで古物商の店を開いた。このあたりは現在、商業の一大中心地であるが、明治三〇年代も同様であった。ことに、明治二七、八年(一八九四、五年)の日清 …

蒔絵の習熟

 このころ、教祖は奈良時代以来の日本固有の高度な伝統工芸である蒔絵に興味を持ち、将来は自分の店に自作の品を並べたいと考え、近所の蒔絵職人の所へ習いに行くことになった。  蒔絵というのは漆工芸の製品の一種である。木の材質の …

黒岩涙香と萬朝報

 明治三五年(一九〇二年)から三八年(一九〇五年)にかけての数年間、教祖にとって、健康もしだいに快方に向かい、また両親や兄夫婦たちにも支えられた平穏な生活が続いた。このころ力を入れたのは読書を主とした勉学であった。  人 …

哲学の学び

 教祖はさらに、西洋哲学の図書も数多く読んだ。なかでもとくに強い共感を覚え、高く評価しているのは、アンリ・ベルグソンの「直観の哲学」と、ウィリアム・ジェームズが主張した「プラグマチズム」である。  アンリ・ベルグソン(一 …

父の死

 教祖が両親や兄夫婦、そして姉・志づの遺児・彦一郎とともに、明治三五年(一九〇二年)から数年間、青春の日々を過ごした築地は、東京の南東、堀割に囲まれた町並みで、東京湾の潮の香が間近に漂う海岸地帯の一画にある。この築地のす …

小間物商「光琳堂」

 喜三郎は、亡くなる前に、遺産として、兄には家作を、弟には身を立てていく資産として現金三五〇〇円を与えた。この額は昭和五五年(一九八〇年)度の物価に換算して、約八五〇万円になる。父の配慮と愛情のお蔭で、商売の元手には困ら …

結婚

 光琳堂は、無経験から始めた商売であり、先行きのことはまったくわからなかった。けれども母の助けを借りながら、正直流をモットーにして一生懸命商売に励んだので、しだいに繁盛して、店はいつの間にか手狭になってきた。そこで、半年 …