「日本観音教団」発足
終戦後しばらくの間、神業は民間療法の形によって続けられていた。しかし、その後間もなく、アメリカ占領軍が、当時の日本の思想を調査し始めた。「日本浄化療法普及会」もその調査の対象となったが、その時調査に来たのはニコルスとい …
社会の見る眼
教線は遼原の火のように全国に広がっていったが、必ずしも社会全般に理解され、快く迎えられたものではなかった。むしろ反対に批判され、反発され、あるいは攻撃の的とさえなった。発展が目覚ましければ目覚ましいだけに、一部の人々の …
C・I・Dの捜索
投書による策謀は、昭和二四年(一九四九年)八月のC・I・D(進駐軍犯罪捜査課。なお、進駐軍とは、終戦後日本に駐留したアメリカ軍を中心とする連合軍。先の占領軍に同じ)による教団施設の家宅捜索となって現われた。 八月二五 …
「世界救世教」発足
「日本観音教団」が、社会の注視の的となるほどの急激な発展を遂げえた理由としては、一つには、当時の社会情勢と深いかかわりがあった。昭和二〇年代、日本の国民は敗戦の荒廃と窮乏、混乱と不安の渦巻く中から、気力を振るい起こして …
熱海大火
教団が新しい体制のもとに、それこそ日の出の勢いで救世の神業を開始してから二か月たってのこと、熱海は二度の大火に見舞われた。一度は四月三日の午後、熱海駅近くの仲見世・商店街が火事になり、九四軒を焼失し、さらにその一〇日後 …
発端
大火に遭遇した熱海の焼け跡もなまなましく、復興もまだ軌道に乗らない昭和二五年(一九五○年)の五月七日、夜八時ごろのこと、熱海警察署に勤務する信者・市野久が本署に呼ばれた。 「明朝六時に国警の人が来るから、その人たちを …
家宅捜索
このように大がかりな捜索を、教団が受けなければならない原因はなんであったのだろうか。 前章にも記した通り昭和二一年(一九四六年)から二二年(一九四七年)にかけて、布教活動はいよいよ活発化していった。しかし奇蹟が相次ぎ …
留置
大々的な家宅捜索が行なわれてから三週間たった五月二九日の未明、教団関係の施設はふたたび捜索を受けた。その中の一隊は碧雲荘に向かい、就寝中であった教祖に同行を求めた。みながよもやと思いながら、心ひそかに恐れていた事態が、 …
頭脳の拷問
教祖が、国家地方警察・静岡県庵原地区警察署に留置されている間、身のまわりの世話をしたのは、近くの旅館の女将・牧田志んであった。彼女は以前から旅館業のかたわらに、署内に留置されている人々のために食べ物を納める、いわゆる差 …
神人合一の自覚
取り調べは一段落した。教祖は翌六月一五日静岡の刑務所へ移された。戦前の弾圧時代から何度か警察の門を潜った教祖ではあったが、刑務所は初めての経験である。胸中暗然たる思いに塞がれた。しかし新しい独房は留置場に比べて清潔で、 …