判決、組織改正

 教祖をはじめ、渋井、井上、金子らに対する起訴が確定したのは、七月一二日のことである。教祖に対する起訴内容は、「経済関係罰則の整備に関する法律違反」と「贈賄」であった。 検察側は五月八日の大捜索以来、いくつかの法律違反事実をたてに幹部を逮捕し、その自白を根拠として教祖の逮捕に踏み切った。威圧的な状態で無理強いした自白をもとにして、官吏への贈賄という犯罪の容疑を作り上げたのである。こうして彼らは、当初の目的通り、教祖を裁判の場に引き出すことに成功したのであった。

 裁判の第一回公判は、教祖の釈放から三か月余を経た一〇月一一日、静岡地方裁判所において開廷された。教団は、元司法大臣・小原直、元明治大学総長・鵜沢聡明ほか一二名の弁護士を委嘱し、万全の体制を整えて裁判にのぞんだ。
この中の一人、小原直は、実業家時代の教祖が、社会悪をただすために新開事業を起こそうと決意した、そのきっかけの一つになったと考えられる、シーメンス事件のさい、主任検事として活躍した人物で、このことはすでに述べた通りである。教団をめぐる裁判は、昭和二五年(一九五〇年)一〇月以来二年二か月にわたって、四一回の公判が開かれた。裁判は自白の有効性をめぐつて争われ、弁護側、検察側双方の主張は最後まで平行線をたどった。
 教祖はこの法難事件の真相及び取り調べの状況を率直につづり、『法難手記』と題して昭和二五年(一九五〇年)一〇月三〇日に出版した。その中で教祖をはじめ被告全員の自白が、きわめて脅迫的な状況のもとで行なわれたことを明らかにしている。教団側の証人及び弁護士は、その事実を訴えたが、これに対して検察側は全面的にそうした事実を否認して自白の任意性を強調したのである。

 判決が出たのは昭和二七年(一九五二年)の一二月二四日であった。ところが意外にも、その結果は検察側の主張が全面的に受け入れられ、教祖をはじめ関係者全員に懲役刑が宣告されるという厳しい内容のものであった。教祖の無実を信じて疑わなかった傍聴の信者たちは、一瞬呆然としたが、教祖に三年間の執行猶予が与えられたのをはじめ、全員に執行猶予が付いたので、ともかくも安堵の胸をなでおろしたのであった。
 
 しかし、当然のことながら、弁護団はこの判決にきわめて不満の意を表明した。それは、弁護した被告の敗訴という体面上の理由だけではない。
ほとんど唯一の証拠である自白に任意性が認められない以上、この間題は初めから事件として成立しうるものではない、というのが、法の正義を貫くうえの弁護団側の一致した信念であったからである。検察側の起訴の根拠は薄弱であるから、再審に持ち込めば勝訴できるであろうと、弁護団は等しく控訴を勧めた。しかし教祖は、判決のあった夜、よ志につぎのように語った。

 「今まで教団は、短期間に大発展したため、ねたんだり、恨んだりしている人々も世間には沢山いるはずだ。けれども今日の判決で有罪と宣告されたので、そういう人々の思いが消えるから、かえって結構なことなんだ。それに有罪といっても、執行猶予なのだから、別にどうということもない。」

と言って、ついに控訴をしなかったのである。

 教団関係者は教祖の意を受けて控訴をしなかったが、教団外の事件関係者は、判決後ただちに東京高等裁判所に上告をした。そして二年後に全員無罪の判決がおりたのである。その理由は被告の自白の任意性に疑いがもたれ、証拠不十分として検察側の敗訴となったのであった。これによって、教祖以下教団側の無実が、間接的な形ではあるが、四年数か月ぶりに証明されたのであった。

 昭和二五年(一九五〇年)六月、教団は組織の改革に着手した。今回の法難が教線の発展に対する組織の不備と、法律上の知識が欠如していたことに起因することが明白であったからである。しかも最終的に教祖逮捕という不祥事を招いたことは、教祖が、教主であると同時に、宗教法人「世界救世教」という組織上の責任者、代表役貝を兼ねていたところに原因するものであったことが省みられた。

 教祖が静岡刑務所から戻った直後、役員、幹部は総辞職し、代わって「世界救世教再建整備委員会」が設置され、教祖の意向を受けて、つぎのような再建案が決められた。

一、教主が代表役貝を兼ねる制度を廃し、管長制にする。
一、理事制を確立する。定員一一名(うち管長一名、常任三名)。
一、監事、三名。
一、相談役、若干名。

 これによって、教祖は教団主管者の地位を退き、代わって大草直好が主管者となった。こうして事務上のいっさいの責任を信者が担う体制が整えられたのである。

 この時管長となった大草は、明治二七年(一八九四年)東京に生まれ、慶応義塾大学で学んだ後、間もなく東京に空調関係の会社を設立、後に鉱山会社や商事会社にも手を広げるなど、若い時代から実業的手腕を発揮した。

 本教に縁が結ばれたのは昭和一八年(一九四三年)のことである。親類に喉頭結核の女性がいて、明日の命も危いといわれたのが、教祖の浄霊によって二、三年、命を永らえた。このことに心を引かれ、中島一斎をたずねて、夜を徹し話を聞いたのが入信のきっかけとなったのである。

 大草が神業上大きな働きを担うようになるのは、その数年後のことである。戦後になって、教団は急速な成長を遂げたが、社会とのつながりは弱かった。そこで大草は、それまでの経験を生かして必要な人物を紹介したり、また教団運営にあたっては教祖の相談相手を務めることもあった。こうして教祖の人格に引かれるとともに、その理想に傾倒して、経営している会社を整理し、教団本部の一員として神業奉仕の道にはいるのである。

 大草はどちらかといえば口数の少ない、物静かな性格であった。しかしその誠実で実直な人柄によって、教祖の信任も厚く、人々からの信頼も大きかった。

 とくに昭和二五年(一九五〇年)、世界救世教の管長となってからは、実務上の責任者として教団の発展に貢献し、終始よく教祖に仕えたのであった。さらに、教祖昇天後数年、教団がもっとも苦しかった時代に、二代教主を助けて神業を支えた働きはきわめて大きなものがあった。
そして、昭和四三年(一九六八年)六月一二日、大草は七三歳で帰幽したのである。

 この機構改革の内容は、昭和二五年(一九五〇年)八月二三日、機関紙紙上に教祖みずから発表している。教祖の逮捕以来休刊していた『救世』紙は『栄光』と改題されて再刊の運びとなったが、その第一面に「本紙再刊に就て」と題して掲載されたのである。

 その中で教祖は、今回の事件が、魂を磨かせるための神の深き恩恵にほかならないと説くとともに、出所一週間後に朝鮮戦争が勃発したことにも言及し、教祖の逮捕と照応して世界的な規模での浄化が始まっていると警告している。こうして神の経綸の意味を踏まえたうえで、このたびの機構改革についてもその裏に神の深い配慮があることを明らかにしたのである。

 この事件に関し、「法難」と題した歌が詠まれている。

  力弱き我魂を鍛めんと神は法難を与へ給ひぬ

  我運命奇しと思ひぬふり見れば荊の道を幾度越へ来し

  人よりも苦しきことあり人よりも楽しきことありわが運命はも

 なお世界救世教の新しい組織が発足して半年後の、昭和二六年(一九五一年)二月五日、教祖から地方組織を全面的に改め、地区制を実施する旨<むね>の発表があった。

 ちょうど一年前の昭和二五年(一九五〇年)二月四日には、日本観音教団と日本五六七教とが統合されて、世界救世教が発足している。以来すべての教会は五六七大教会、天国大教会、大成大教会、光宝中教会(後すぐに大教会に昇格)という四大教会のもとに所属していたのである。新しい組織ではこれを一七の地区に分け、信者が総本部に直結することによって、教祖のもとに心を一つにできるような体制が整えられるはずであった。その具体的な人事の詳細は二六年(一九五一年)三月七日、栄光九四号紙上に発表された。しかしこの時は地区制はついに実現を見ずに終わってしまった。

 信者の向上と神業の進展のための地区制が公表されたのに、実現しなかったことに、どうしても納得がいかなかった川合輝明は、教祖に面会したおりに、その理由を尋ねた。すると教祖は、

   「私も最初は賛成したが、結局まとまらなかったのは時期が早いんだろう。」

 と答えたのである。教祖がこのように決断した背景には、地区制の実施に伴う混乱を憂慮するというよりも、教団内外の諸般の事情から、いまだ時期尚早と判断したものと受け取ることが できる。

 こうして地区制は教祖の構想発表にとどまり、実現の機は昭和三〇年(一九五五年)の教祖昇天まで、ついに熟することがなかった。教団改革の実現は、こうして後世の教団人に託されることとなったのである。そして地区制は二十余年後の昭和四七年(一九七二年)、奇しくも時の総長・川合輝明による教団一元化<*>の歩みの中で初めて実現するにいたるのである。

 *昭和四四年(一九六九年)以降、教祖の心に帰り、聖地中心の信仰を確立するために行なわれた信仰上の教団改革をいう