天国の雛型

 教祖の逮捕という衝撃的な出来事によって、教団は、一時、教線が大きく後退するほどの痛手を受けた。しかし、その間にも、箱根、熱海における聖地の造営は、強固な信仰に生きる人人の手によって着実に進められていたのである。建設の第一歩は、昭和一九年(一九四四年)五月に教祖が東京の玉川から箱根・強羅の神山荘に移転した時に始まった。

 教祖は神山荘を入手し、ここに居を定めると間もなく、隣接する箱根登山鉄道の所有地のうち、今日の箱根美術館から日光殿に至る土地約二〇〇〇坪(約六六〇〇平方メートル)を購入した。そこには教祖にとって思い出深い貸し別荘が含まれていたのである。

 この土地は、明治末から大正の初め、小田原電気鉄道(後の箱根登山鉄道)が建設した強羅園といわれた公園の一部である。強羅園は、日本風公園とフランス風公園から成り、そのモダンな作りが当初世間で話題を呼んだ。しかし、大正一二年(一九二三年)の関東大震災で大きな被害を受け、さらに戦時中、手入れをされずに長く放置されたこともあって、木々はいたずらに枝葉を伸ばして、昼なお暗いといった様子であった。教祖が購入したのは、こうした和風公園のあった所である。

 戦争末期から終戦直後という、物心共に逼迫した時代にあって、箱根、熱海において土地を積極的に入手していった意図の奥には、神の経綸に基づき天然と人工の美の調和した理想郷を造り、その地を神業の拠り所とするという明確な目的があった。

 この真善美を実現した地上の楽園こそは、時来たってこの世に実現されるべき理想世界の姿を、具体的に万人に示すという、雛型としての働きをもつものであった。
 教祖は、
 「我等の理想とする地上天国とは、真善美完き世界である。」
と記し、また、

 「この神仙郷地上天国にしても、将来に於ける世界的地上天国を暗示している。」
とも説いている。

 雛型の建設とその完成とは、理想世界建設への歩みときわめて深いつながりをもっている。
教祖は、このことについて、

 「神の経綸なるものは最初は極く小さく造り、漸次拡がって終には世界大となる。」

と説いている。ときに経済的な大きな困難があったにもかかわらず、それを乗り越え、物資の不足を克服して造営を推進していったのも、それが神の経綸上、重要な意義を秘めていることに絶対の信念があったからである。

 箱根、熱海の地の入手が進み、造営事業が進展するにつれて、これらの地が、あらかじめ神の見えざる意志によって定められた土地であることを示すような神秘な事実が次々に明らかになっていった。教祖はその事情を、
 「必要な土地は次々手に入ってくるから不思議だ。それも飛びΧΧではない。隣から隣へと順々に広がってゆく。しかも時もそうで、必要に迫ってくると売りたいと言ってくる。全く思い通りに運んでゆく。」
と書いており、また、
 「要する石は、一個所から無限に出てくる。いくら掘っても尽きる事を知らない有様だ。」
とも記している。

 これは、必要な土地の拡張や岩石のことばかりではない。庭木にしても、望むものが、ちょうど望むころに入手されるといった不思議な事実は、造営の途上にあって枚挙にいとまのないほどであった。毎日毎日が奇蹟の連続であったといっても過言ではない。 

 神意のまにまに、大建設の神業を進めることについて、教祖は夜昼転換の理を踏まえながら、つぎのように書いている。

 「昭和六年(一九三一年)<*>以降、漸次霊界は昼になりつつあるので、天国を造る事は容易になったのである。否、人間が造るのではない、神様が造るのであるから、自然に時の進むに従い進捗するので、人間はただ神のまにまに動けばいいのである。即ち、神が設計し、監督し、多数の人間を自由自在に使役するので、私としての役目はまず現場監督と思えば間違いないのである。勿論その一部として現在天国の模型も造っているので、信者諸君はよく知るところである。右の如くであるから、土地にしても予期もしない時期に、予期もしない位置に、売りたい人が出る。すると私はハハー神様がここを買えというのだなと思うが否や、それだけの金額は別に苦労しないで集まってくる。それに準じて、最も適した設計者も土木建築家も、材料も、思う通り必要なだけは判で捺したように入手する。庭木一本でも、突如として誰かが持ってくる。それがチャンと当まるような場所がある。時には、庭木が数本も数十本も一時に入手するので、私は戸惑いするが、これは神様がなさる事と思うから庭を睨みながら、順々に植えて行くと、過不足なく、きっちり当嵌ってしまう。その度毎に、一切は神様がやられる事が、実によく分るのである。ある位置にこういう石や木が欲しいと思うと、一日か二日でチャンと来る。これが奇蹟でなくて何であろう。」
     
 *( )内は編集者・挿入

 箱根・神仙郷に専門の職人を入れ、本格的な造園工事が 開始されたのは昭和二〇年(一九四五年)からであった。

 教祖は毎日現場に立って造営の指示をしたが、それは文字通り神苑内の一木一草一石の末にまで及んでいる。造園の約束ごとにはとらわれず斬新な手法によって、岩を置き、草木を配して、神仙郷を建設したのである。それは、箱根の自然に溶け込み、より高い芸術性を表現したものである。

 昭和二四年(一九四九年)の夏、少しずつ形を成していく神苑を、教祖はつぎのように詠んだ。
 
 生ひ茂る草木の薮を切りひらき箱根の山に花苑つくりぬ

 箱根・神仙郷の庭園には、随所におびただしい石が使われている。観山亭の庭を流れる渓流の岩組や、随所に配置された大岩の数々は、強羅の地形を巧みに生かし、独自の趣を作り出している。これらの石はすべてこの土地から掘り起こされたものである。教祖はそのことにも、神の周到な準備のあることを感得している。

 強羅周辺に埋もれている岩は、はるか昔、背後の早雲山の爆発によって落下したものという。神仙郷の造営にあたって教祖は、ある場所に石が欲しいと思うと必ずその近くから格好の石が出てくるという事実に遭遇して、太古の昔、すでに神はこの地を用意したことが知られると説いている。

 このように教祖は、造営にまつわるさまざまな事柄の中に、神が地上天国の雛型建設を意図し、その一刻も早い完成を待ち望んでいるという確信をいよいよ強固なものとした。この信念からほとばしり出る大胆な構想が次々に打ち出されていったのである。

 このようにして、昭和二一年(一九四六年)八月には神仙郷に教祖の居宅・観山亭ができあがり、その翌年の五月には和風公園時代の貸し別荘の一つを移築改造して、萩の家と命名し、後にその前に萩の道が完成している。次いで、昭和二三年(一九四八年)には、早雲寮(後に日光殿と改称)の建築が始まり、五月には仮落成式が行なわれ、周囲の造園や池造りの工事も始まった。すでに昭和二〇年(一九四五年)から、信者による奉仕が始められていたが、勤労奉仕隊が組織されて、職人衆の作業を手伝うようになったのは、この工事からである。昭和二四年(一九四九年)の五月には、観山亭から早雲寮にかけて、変化に富んだ庭園が完成した。さらに昭和二五年(一九五〇年)の夏には茶室・山月庵が竣工し、これに隣接する竹庭も造られた。

 昭和二三年(一九四八年)から二五年(一九五〇年)にわたって、教団の行く手には何度も暗雲がよぎったが、建設はそれに妨げられることもなく、着実に続けられ、昭和二五年(一九五〇年)前半には、神仙郷の基礎がほぼできあがった。そして、九月二一日から七日間、世界救世教となって、初の秋季大祭が日光殿において盛大に開かれたのである。

 この祭典に全国から集まった参拝者の数は大変なもので、南面に特設した桟敷まで、立錐の余地もないほどであった。信者の表情には、あの法難事件に胸を痛め、不安の日々を送った四か月前の暗い陰はみじんもなく、どの顔も神仙郷の基礎の完成を祝う、秋季大祭に参拝できた喜びにあふれていた。

 教祖はこの大祭のため、一〇首の歌を詠んだ。

  地上天国弥々<いよいよ>成りて目出度も喜び祝ふ今日の御祭

  真善美完き姿人の眼に映るなるらめ神仙郷はも

 この大祭には、二代目・市川猿之助(一八八八年~一九六三年)、四代目・吉住小三郎(一八七六年~一九七二年)、徳川夢声(一八九四年~一九七一年)、三代目・三遊亭金馬(一八九四年~一九六四年)など一流の芸能人が招かれ、祭典のあと多彩な演芸が催された。教祖夫妻は信者と共に、それを楽しみ、華やいだ一時を過ごしたのである。

 この年の暮、美術館敷地造りが始まり、翌二六年(一九五一年)夏、造成は終わった。そして秋には基礎工事に着手、鉄筋コンクリート建築のための頑丈な柱が立ち始めた。また、初の関西巡教から帰った教祖は、間もなく、茶室・山月庵の東側にあたるくぼ地に土を盛って苔庭を造る構想を打ち出し、全国の信者に各地の苔の提供を呼びかけたのであった。このようにして、熊笹の生い茂った土地は様相を一変し、琳派風の感覚にあふれた、美しい苔庭が出現、神仙郷にひときわ異彩を添えることになった。

 さらに、その翌年の昭和二七年(一九五二年)の六月、待望の箱根美術館が竣工し、開館を迎えることになった。ここに箱根・神仙卿の完成を兼ねて、地上天国祭が三日間にわたり盛大に開かれたのであった。