留置

 大々的な家宅捜索が行なわれてから三週間たった五月二九日の未明、教団関係の施設はふたたび捜索を受けた。その中の一隊は碧雲荘に向かい、就寝中であった教祖に同行を求めた。みながよもやと思いながら、心ひそかに恐れていた事態が、ついに現実のものとなったのである。教祖は事の成り行きに愕然<がくぜん>としたが、すぐに、
 「部下が長い間取り調べを受けているのは何か氷解しない点があるからでしょう。私の口から十分説明しましょう。」
と同行に応じたのである。

 教祖の逮捕は翌日、各新聞紙上に一斉に報道され、日本中の耳目をさらう一大ニュースとなった。

 「岡田教主を逮捕
   脱税・贈賄のメシヤ教」(朝日新聞)

 「〝お光様〟を検挙
   贈賄でまんまと脱税」(毎日新聞)

 「〝お光さま〟逮捕さる
    所得税脱税の疑い
     観音教熱海、箱根を急襲」(読売新聞)

 教祖は戦前、三度にわたって留置場にはいった経験がある。とくに昭和一一年(一九三六年)八月、大宮警察署に留置された時には毛髪を引っ張られるなど肉体的な拷問さえ受けたのである。しかし昭和二五年(一九五〇年)五月に起きたこの事件について教祖は、
 「特高の調べなどといふと、非常に封建的であるやうに想像されるが、今回の取調べに較べてみると、比較にならぬ程、今度の方が峻厳苛烈で、戦慄の一語につきると言ってもいい。」
と言っている。

 部下のために釈明を行ない、真相を明らかにしようと、進んで囹圄(牢獄。獄舎)の人となった教祖であったが、待ち受けていたものは、苛酷な言葉による拷問であった。

 当局は、逮捕に踏みきる前に、教祖を有罪に追い込む手だてをあらかじめ計算し尽くしていた。取り調べにあたったのはK巡査部長(刑事部捜査課)ら三人である。最初は某銀行員に預金の分割を依頼したという容疑に関する問題であった。正直に言えというので、教祖が知っていることは述べ、知らないことは知らないとはっきり否認すると、
 「君が知らないはずはない。とぼけたり嘘言ったりすると承知せんぞ。井上の言うことも銀行員の言うことも一致している以上、君一人違うと言っても、二対一では君の方が間違っているに決まっている。」
と言って取り合わない。教祖は、
 「いくら考えても私のほうが本当だと思う。」
と主張したが、三人は初めから教祖に罪があると決めてかかっており、なお執拗に追及を続けるのであった。

 彼らが自白を要求する当の事柄は、銀行に預けた教祖の預金がどう運用されたかということ、また便宜を図った銀行員に対する謝礼としての金額うんぬんであった。しかし銀行員は一信者として神業に寄与できることを喜びとして、教祖の預金を管理していた立場であるから、謝礼金を渡すなどのことは初めからありえないことなので、教祖にとっては、いかにしても思い出しようのない問題であった。

 教祖は、連日早朝から深夜まで、数多くの神務を精力的に推し進め、一分一秒を惜しんで精励するのが日課であったので、経理上の細部にわたる金額などについては、記憶にないのが当然であった。しかし取り調べ官は少しも諦めなかった。むしろ苛立って責めたて、尋問は日一日と激しさを増すのであった。