頭脳の拷問

 教祖が、国家地方警察・静岡県庵原地区警察署に留置されている間、身のまわりの世話をしたのは、近くの旅館の女将・牧田志ん<Γ>であった。彼女は以前から旅館業のかたわらに、署内に留置されている人々のために食べ物を納める、いわゆる差入業をも営んでいた。女将は教祖の世話をしている合い間をみては、自分の一身上の相談をした。その答えの一つ一つが彼女の心に染み入り、知らず知らずのうちに、教祖に尊敬の念をいだくようになっていた。これは彼女だけではなかった。取り調べ官は別にして、警察署では、署長をはじめみなが、教祖の日常の姿に何かと教えられることがあって、「先生」と呼ぶようになり、教祖の扱いには特別の配慮をするようになった。

 ある朝のこと、女将が朝食を持って行くと、いつも食事をすることになっている署員室に教祖の姿がない。不思議に思っていると、二階の廊下でガタガタと下駄の音がする。行ってみると、教祖があっちへ行ったり、こっちへ行ったり、手を振って歩き回っているので、
 「先生、どうしたんですか。」
と聞くと、
 「うん、運動不足だから散歩してるんだ。外へ出られないから、ここがちょうどいい。」
と言う。不自由な生活の中で、運動不足を解消しようと廊下を歩き回るその闊達さが、女将の心には不思議な魅力をもって映った。

 そのうえ、とくに心を打たれたのは、それから間もない朝のことである。いつものように食事を運んでいくと教祖が言うのである。

 「ここにはいってる望月というのがもうじき出所する。出たら五〇〇〇円やる約束をしたから、うちの者にそう言ってくれ。こいつは泥棒なんだが、朝、顔を洗っているところへやってきて、先生カネ貸してくれというので、どうするんだといったら、今度出たら正業をやりたい。お茶の行商をやりたいが元手がいると言うので、いくらだと言ったら、五〇〇〇円だというから、よしと言っといた。」

 このように、留置場の中にあっても、心の自由さと、底深い愛情を失わず周囲の人々に無形の感化を与えた教祖であった。しかし一日一日と日を重ねるにつれ、しだいに焦燥の思いにかられるようになった。その理由の第一は、信者への思いであった。これまでにも、誹謗記事のため、信者の一部に動揺が起きたこともあったが、教祖自身が適切な指示を与えることができたために、その影響は軽微なものであった。しかし今度は、教祖の身柄が拘束されているので、信者の不安や心痛は大きかった。教祖が拘束されて以来、その身を案じて、何百という信者が、毎日のように警察署の前に集まり、中の様子をうかがったり、祈りを捧げたりしたのである。

 二番目は日ごろ、偽りの心や言葉、行ないを戒めている教祖にとって、無理矢理に虚言を述べさせられるというのは耐えがたい屈辱であった。それゆえ取り調べ官から自白をしないといつまでも勾留をするといっておどされ、焦燥感がしだいに高まったのも当然といえよう。教祖は事ここにいたってやむをえず決断をした。取り調べ官の言葉の端々から相手の考えを読み取り、適当に供述したので、預金問題についての調書はなんとかできあがった。しかし、一息ついたのもつかの間、尋問は昭和二三年(一九四八年)の大蔵省査察問題に切り換えられた。これはきわめて複雑で、供述は容易でなかった。取り調べ官は教祖の答弁が気に入らないと、
 「こんなわかり切った問題が、記憶を呼び起こせねえなんてことはあるもんか。正直に言えばなんでもねえのに曲げて言おうとするから暇がかかるんだ。」
と野卑な言葉で責め立てるのである。

 教祖は虚偽の供述を強いられる憤懣と困惑から、しだいに疲労が積み重なった。逮捕以来すでに一〇日に及び、六七歳という年齢に加えて運動の不足がある。さらに生活環境の激変から、その心身は表弱しきっていたのである。取り調べ中、教祖はついに激しい眩畢を起こし、その場に昏倒してしまった。警察医の診断では脳神経衰弱ということであった。

 一日おいて、ふたたび尋問が開始されたが、相変わらず、「記憶を呼び起こせ。」と迫るのである。教祖は心を鎮めようと努力したが、またしても意識を失って倒れてしまった。一時間ほどでようやく立てるようになったが歩くことができない。M巡査部長が教祖を背負い、留置場まで運んだが、その背中で教祖は思わず、
 「これは頭脳の拷問だ。」 
と叫んだので、そのM巡査部長は拷問という言葉にギョッとして身を固くしたのであった。

 この時を境にして、教祖は間断のない眩暈に悩まされるようになった。ちょっと何かを考えようとすると意識の平衡が失われて、ぐらぐらとするのである。教祖はここにいたって、自身の心身の限界を自覚した。翌日の取り調べにさえ応じられないほど衰弱はひどかった。そこで最後の手段として霊を呼んで聞くという交霊術に訴えようとして、渋井総斎の弟で、当時その間題を担当した渋井道夫の霊を呼び出して、おおよその金額を知ったのである。

 そしてその翌日、教祖は尋問に応じ、前の日に聞き知った金額をよどみなく供述し、ようやく調書はできあがったのであった。