景仰

陰から陽に向かって

 明主様は、明治十五年十二月二十三日にお生まれになられましたが、その日は冬至の翌日で、俗に畳の目一つずつ日が延びていくと言われておりますように、陰から陽に向かうという、そういうお日柄にお生まれになったということは、やはり …

ご両親ゆずりのお徳

 それで、ご両親は、浅草観音の境内に古道具の夜店を出されたこともあったよしですが、そんな暮らしの中でも、お父さまは大のきれい好きで、おかしな話ですが、自分専用の便所を作られて、その便所は、家族のものにも使わせなかったほど …

独立自主の精神

青年時代の明主様は、体は非常にお弱くて病身でありましたが、精神の方には非常に激しいものがあったと思います。  そして、いかに独立自主であったかということは、その例として、明主様は非常にいい耳をしておられましたが、あの耳を …

生来の正直流で

明主様は二十五オの時、二千円の資本で、日本橋の西仲通りに「光琳堂」という小間物屋を開かれましたが、この時はお母さまと親戚の少女の三人暮らしでしたので、ご自分が店のことは一切なさるという約束で、朝は早くから起きて、人の通ら …

常に新人として

小間物小売りの「光琳堂」から、同じ小間物の卸の「岡田商店」へと衣替えして、初めて番頭さんをお人れになる時、明主様は、『売上げの何分をやりましょう』ということで雇い入れられました。   その時は創業時代でささやかなものでし …

巾広いご趣味

そのころの明主様ですが、午後の三時か、四時ごろになりますと、一応仕事が終わって自宅の方へ電話がかかってまいります。   そうすると私が店へ出かけて行って、一緒に外へ出て帝劇へ行ったり、また銀座、浅草で映画などを観ました。 …

房州鋸山の黎明

昭和六年のある日、明主様に神様から、〝房州の日本寺へ行くように″という御神示がありました。  みなに早速そのことを話されますと、幸いなことに、ごく側近の幹部の中に、日本寺の当時の住職である田中さんという方と昵懇な人がおり …

笑冠句の会

明主様はいろいろなことを計画されますと、それに対する熱意とご努力は異常と思えるほどで、たとえば短歌を始められた時なども、少しも勉強されておりませんでしたのに、始められると作歌に余念がなく、ほとんど夜の二時三時まで、パイプ …

いつの時も天国人

  玉川へ引越しされてからのことですが、玉川署ににらまれ、いろいろなことがありましたが、これにはちょっとおかしな話があります。  玉川へ来ましたが、この屋敷は広大でありますので、署長さんが敬意を表する意味で、ある朝早く訪 …

美術館の構想と実現

 玉川のころ、ある日、川べりを明主様のお伴をして散歩しておりますと、例によって明主様は道々必ず将来の抱負やら、ご計画について、さも楽しそうに語られるのでした。  その日、特に私の耳に残っておりますことは、『いまに美術館を …