笑冠句の会

明主様はいろいろなことを計画されますと、それに対する熱意とご努力は異常と思えるほどで、たとえば短歌を始められた時なども、少しも勉強されておりませんでしたのに、始められると作歌に余念がなく、ほとんど夜の二時三時まで、パイプを口にくわえてやっておられました。

 その和歌のほかに、明主様は一般信者のためには、もっと手近な、はいりやすい冠句というものを奨励され、それが長文の笑冠句となり、寸鉄や阿呆陀羅経など、いわゆる滑稽阿呆文学を通じて、笑いのいかに必要なものであるかを教えられました。

 笑わすということは大変コツのいることであり、頭がよくなくては出来ないものでありますが、この点明主様は頭も飛び切りよかったし、笑わす天才でもありました。最も不遇、不況に沈んでおられた大森時代には、ことさら笑いを奨励されまして、笑和会という笑冠句の会をつくられて、一同の勇気を鼓舞して下さいました。

 そのころ、大森の家のすぐ側に、当時愛善新聞を売るために一戸を借りまして、奉仕者の宿舎としておられました。そこで若い人たちが自炊しながら、毎日市内や市外に出かけ、新聞の一部売りをいたしておりました。

 もちろん、世間の人は理解がありませんでしたから、時には、まるで物乞いかなんぞのように、冷たい言葉で追い払われたり、また犬に吠えつかれたりして、思うように買ってもらえませんでした。

 けれども、信仰というものは実にありがたいもので、これら奉仕者の人たちは、一途に世のため、人のためという大抱負の下に頑張っておったのであります。その抱負は栄光新聞となった今日でも同じだと存じますが――。

 そういう人々を慰安する目的で、明主様は時間を割いて、慰労の会をつくられたのでありますが、その楽しみがあるために、みなは勇気づいて、ほんとうによく働いてくれました。

 そして、ずいぶんとおかしい句がたくさんあり、読み方が上手なせいもあって、下手な漫才を聞くよりも、よほどおもしろかったのであります。みなみなお腹をよりまして、半日ぐらいお腹の皮が痛かったこともごぎいます。もちろん明主様は、鼻の両脇に涙を流しながら、痍をかみかみ聞いておられ、それを拝見いたしますと、さらにまた、おかしさが込み上げて来るのでありました。

 とにかく、そうした雰囲気をおつくり下さったので、一同は日々の苦労も忘れて、新しいあすへの希望に張り切って出かけてゆくというふうに、結構楽しく暮らさせていただいておったのであります。