総結論
新世界における宗教、政治、経済、教育、芸術等あらゆる文化工作に関する私の新説は、やがて発表する考えである。もちろんこれ等の事も医学と同様、前人未発的である事は言うまでもない。地上天国建設というがごとき空前の事業に対しては、空前の構想が樹てられなければならないであろう。キリストは曰った。「天国は近づけり、悔改めよ」と又釈尊は言った。「仏滅後、弥勒世界が出現する」等の予言こそは今や如実に生れんとして、その陣痛苦の中に全世界は置かれているのである。
総篇 序文
この著は歴史始まって以来、未だかつてない大著述であり、一言にしていえば新文明世界の設計書ともいうべきもので、天国の福音でもあり、二十世紀のバイブルでもある。というのは現在の文明は真の文明ではないので、新文明が生れるまでの仮の文明であるからである。『聖書』にある世の終りとは、この仮相文明世界の終りを言ったものである。又今一つの「あまねく天国の福音をのべ伝えられるべし。しかる後末期到る」との予言も、この著の頒布である事は言うまでもない。そうしてバイブルはキリストの教えをつづったものであるが、この著はキリストが繰返し曰われたところの、かの天の父であるエホバ直接の啓示でもある。又キリストはこうも言われた。「天国は近づけり、汝ら悔改めよ」と。これによってみれば、キリスト自身が天国を造るのではない。後世誰かが造るという訳である。
総篇 既成文化の誤謬
これについて重要な事は、今日までの学者の頭脳である。それは彼等は宗教と科学とを別々のものとして扱って来た事で、この考え方こそ大きな誤りであったので、それを根本から解明するのがこの著の目的である。そうして地球上における森羅万象一切は、相反する二様のものから形成されている。それは陰陽、明暗、表裏、霊体というようになっている。ところが今日までの学問は体の面のみを認めて、霊の面を全然無視していた事である。というのは霊は目に見えず、機械でも測定出来なかったからでもあるが、その為学問では今日まで地球の外部は、只空気と電気だけの存在しか分っていなかったのである。ところが私はそれ以外確実に存在している霊気なるものを発見したのである。これについてはまず地球上の空間の実態からかいてみるが、それはこうである。すなわち前記のごとく霊気(火)空気(水)の二原素が密合し、一元化した気体のようなものが、固体である地塊(土壌)を包んでおり、この三原素が合体して、宇宙の中心に位置しているのでこれが我々の住んでいる世界及び周囲の状態である。ところが科学は右の空気と土壌のみを認めて、霊を認めなかったが為、空気と土壌の二原素のみを対象として研究し進歩して来たのであるから、言わば三分の二だけの科学で全体ではなかったのである。この根本的欠陥の為いかに進歩発達したといっても、三位一体的真理に外れている以上、現在のごとき学理と実際とが常に矛盾していたのであるから、この欠陥を発見し是正しない限り、真の文明世界は生れるはずはないのである。そうして右三者の関係を一層詳しくかいてみると、経には霊、空、地の順序となっており、かの日月地の位置がよくそれを示しているとともに、緯すなわち平面的には三者密合し重り合い、距離は絶対なく、混然と一丸になって中空に浮んでいるのが地球である。もちろん三者夫々の性能と運動状態は異っている。すなわち火は経に燃え、水は緯に流れ地は不動体となっているが、これは絶対ではなく、呼吸運動による動体中の不動体である。そうして経と緯とは超微粒子の綾状的気流となって、地球を中心として貫流し、運動しているのである。そうしてこの気流なるものは空のごとく無のごとくである為、現在の学問程度では到底把握出来ないのである。しかるに意外にもこの気体そのものこそ、実は一切万有の力の根原であって、その本質に至っては実に幽幻霊妙想像に絶するものである。仏者のいう覚者とはこの一部を知り得た人間を言ったもので、それ以上になった者が大覚者であり、一層徹底した大覚者が見真実の境地に到達したのである。釈迦、キリストはこの部類に属するのであるが、只しかしこの二聖者は時期尚早の為、ある程度以上の力を付与されなかった事である。それが為救世的力の不足はどうしようもなかった。その証拠として両聖者は固より、その流れを汲んだ幾多覚者達の努力によっても、今もって人類の苦悩は解決されないに見て明かである。ところがいよいよ天の時来って絶対力を与えられ、その行使による人類救済の大使命を帯びて出顕したのが私である以上、私によって真理の深奥を説き、人類最後の救いを実行するとともに、新文明世界設計についての指導的役割をもあわせ行うのであるから、実に全人類に対する空前絶後の一大福音である。
総篇 天国建設の順序と悪の追放
こうみてくると、今日までは悪も大きな役割をして来た訳になる。といっても悪の期間は無限ではなく限度がある。それは世界の主宰者たる主神の意図であり、哲学的に言えば絶対者とそうして宇宙意志である。すなわちキリストが予言された世界の終末であり、そうして次にきたるべき時代こそ、人類待望の天国世界であり、病貧争絶無の真善美の世界、ミロクの世等名は異るが意味は一つで、帰するところ善の勝った世界である。この様な素晴しい世界を作るとしたら、それ相応の準備が必要である。準備とは精神物質ともに、右の世界を形成するに足るだけの条件のそろう事である。ところが神はその順序として物質面を先にされたのである。というのは精神面の方は時を要せず、一挙に引上げられるからで、それに反し物質面の方はそう容易ではない。非常に歳月を要するとともに、その為には何よりも神の実在を無視させる事である。これによって人間の想念は自然物質面に向く。ここに無神論が生れたのである。ゆえに無神論こそ実は悪を作る為の必要な思想であったのである。かくして悪が生れ、漸次勢を得て善を苦しめ争闘を起し、人類をして苦悩のドン底に陥らしめたので、人間は這上ろうとしてあがくのはもちろん、発奮努力によって苦境からのがれようとした。それが文化発展に拍車を掛けたのであるから、悲惨ではあるが止むを得なかったのである。
総篇 悪と守護霊
それが為今日までの神はたとえ正しく共次位の階級であるから、その力が弱く正邪相争う場合一時的ではあるが悪の方が勝つので、これを見る人々はそれに憧れ、真似しようとする。特に野心あり力量ある者程そうであるのは、歴史を見ても分る通り、幾多英雄豪傑の足跡である。なるほど一時は成功しても最後は必ず失敗するのは例外がないのである。これを霊的にみるとそのことごとくは邪神界の大物の憑依であって面白い事には最初はトントン拍子にゆくので有頂天になるが、それもある程度までで必ず挫折する。そうなると憑依霊はたちまち脱却してしまう。我々の知る範囲内でもカイゼル、ムッソリ─ニ、ヒットラ─のごときがそうで、失敗後は人が違うかと思うほど痴呆暗愚的に気の抜けたようになったが、これは大きな邪霊が抜けた後は誰でもそうなるものである。そうして驚くべき事は邪神界の総頭領は、今から二千数百年前、世界の覇権を握るべく、周到綿密にして永遠な計画を立て、現在まで暗躍を続けつつあるが、正神界の方でもこれに対立し戦っているのである。その神としてはキリスト、釈迦、マホメット、国常立尊の系統の神である。
総篇 救い主と贖罪主
ところがいよいよ悪の期限が来たので、主神の直接的力の発揮となった事で、ここに私という人間を選び、善と悪との根本義を開示されたのである。それというのは今までの各宗開祖は力が足りなかった。その最もいい例としてはかのキリストである。キリスト自身は贖罪主といったが、救い主とは曰わなかった。贖罪主とは読んで字のごとく、罪の贖い主である。つまり万人の罪を一身に引受け、主神に謝罪をし、赦しを乞う役目である。早くいえば万人の代理者であり、赦される側の神で、赦す方の神ではなかった。その為罪の代償として十字架に懸ったのである。
この理は仏教についてもいえる。かの釈尊が最初は仏教によって、極楽世界を造るべく数多くの経文を説き、専心教えを垂れたのであるが、どうも予期のごとく進展しなかったところへ仏典にもある通り「吾七十二歳にして見真実を得た」と曰われた通り、この時自己の因縁と使命を本当に知ったのである。そこでこれまでの誤りを覚り、極楽世界出現は遥かに先の未来である事が分ったので、これまで説いたところの経説には誤謬の点少なからずあり、これから説くものこそ真実でありと告白し、説いたのがかの法滅尽経であり、弥勒出現成就経であり、法華経二十八品であったのである。一言にしていえば釈尊は仏滅すなわち仏法は必ず滅するという事を知り、その後に至って現世的極楽世界である弥勒の世が来ると曰われたのは有名な話である。只ここで時期について注意したい事は、釈尊は五十六億七千万年後ミロクの世が来ると曰われた。しかしよく考えてみると、いくら釈尊でもその様なとてつもない先の事を予言するはずはない。第一そんな先の事を予言したとて、何の意味もないではないか。なぜならばそんな遠い時代、地球も人類もどうなっているか、到底想像もつかないからである。これは神示によれば五六七の数字を現わす為で、この数字こそ深い意味が秘めてあった。すなわち五は日(火)、六は月(水)、七は地(土)であり、これが正しい順序であって、今日までは六七五の不正な順序であった。これは後に詳しくかく事として、とにかくキリスト、釈尊の二大聖者といえども、真理は説けなかったのである。何よりも経文やバイブルにしても明確を欠き、何人といえども到底真理の把握は不可能であったにみて明かである。もちろん時期の関係上止むを得なかったのである。
宗教篇 霊界における昼夜の転換
右のごときその転換の意味は今日までは夜の世界であったから、いわば月の支配であったのである。ところがいよいよ昼の世界となるについて、かねて世界の二大聖者として仰がれている釈迦、キリストの予言された通りの事態となったのである。そうしてまず仏典によれば釈尊は「吾七十二歳にして見真実となれり」と言われた後、間もないある日、世尊はいつもに似合わず憂欝の色覆い難い御様子なので、弟子の阿難尊者が憂慮し御訪ねした「世尊よ、今日は常にない御沈みのように見受けられますが、何か御心配事でも御有りですか」と申したところ、釈尊は直に御答えになった事は「わしは今まで終生の業として仏法を創成し、一切衆生を救わんとして大いに努力を続けて来たが、今日大仏陀から意外なる御さとしがあった。それによるとある時期にいたると、我仏法は滅すると言う事で、大いに失望したのである」との御言葉であって、それから世尊はこうも曰われた「わしは見真実によって分った事だが、今まで説いて来た多くの経文は、少からず誤りがあるので、今日以後真実を説くから、よくこれによって正覚を得られよ」と仰せられたので、この時からの経文こそ仏法の真髄である事は確実で、それが法華経二十八品と、法滅尽経と、弥勒出現成就経である。ところが、その事を発見されたのがかの日蓮上人であって、上人はこの発見によって他宗教義ことごとくは見真実以前に説かれたものであるから、真実ではない。ひとり我法華経こそ仏法の真諦であるとして、他宗ことごとくを否定し、猛然として一大獅子吼をされたのであるから、上人のこの傍若無人的宣言も、むげに非難する事は出来ないのである。
宗教篇 キリスト教
キリスト教は、キリスト生誕の時から在世中は固より、十字架に懸られるまでの全ての事は、微に入り細に渉ってかきつくされているので、今改めてかく必要はないから、私としての今まで何人もかかなかった事柄についてのみかくに止どめておくので、読者は了解せられたいのである。
私が常にいうごとく、神は何千年に渉って、天国的文化を形成する目的の下に経と緯の経綸をされて来たのであるが、その経の経綸の代表的宗教としては仏教であり、緯の代表的宗教としてはキリスト教であった。そこで仏教については既に解説して来たから、今キリスト教に移るが、緯の経綸こそ物質文化の進歩発展の基本であって、すなわち科学である。今日驚くべき文化の発展は、全くキリスト教以来の世界的経綸である事は言うまでもないが、ここにおいてキリストはなぜ生れたかという事や、その他の点について次に詳しくかいてみよう。
宗教篇 善悪発生とキリスト教
この標題の意味を説くに当って、あらかじめ知っておかねばならない事は、再三言っているごとく、仏教の真髄は霊が主であり、キリスト教のそれは体が主である事である。とすれば今これを仮に善と悪とに別けてみると、霊は善に属し体は悪に属するといってもいいが、しかしこの場合の善悪は決定的のものではなく、只強いて別けるとすればそうなるのである。換言すれば霊を主とすれば霊主体従となり、体を主とすれば体主霊従となるからである。今それらについて順次解読してみるが、善と悪とについて、徹底的解釈をするとなると、これは仲々難しい問題であって、今日までこの問題を真に説き得た者は、ほとんどないといってもいい位である。何となればこの事は大宇宙の主宰者である主の神の権限に属するからで、すなわち哲学的に言えば宇宙意志である。したがって主の神以外のあらゆる神でも分り得ないのは当然で、いわんや人間においてをやである。しかしこの問題を説く人があるとすれば、それは人智から生れた想像の範囲内であって、それ以外一歩も出ないのである。ところがそれを私はここに解説しようとするのであるから仲々大変ではあるが、といって私の想像的所産ではなく、神示によるものであるから別段難くはないのである。というのは時期来って地上天国建設の大任を負わされた私としては、ある程度主神の真意が感得されるからで、読者はこの点よく心に止めて読んでもらいたいのである。
以上のごとく、物質文化がこの程度にまで進歩発達したについての、古代からの過程を凝視する時、そのところに何を見出すであろう。といっても人間の頭脳での発見は困難であるが、私は今それを解説しようと思うのである。それは世界の一切は神意による経綸である事を充分知らせたいからである。そこでまず人類の最大苦悩であるところの善と悪との摩擦すなわち闘争であるが、この闘争なるものの原因は、言うまでもなく悪であるから愛の権化ともいうべき神は、なぜ悪を造られたかという事である。この事は昔から何人も知ろうとして知り得なかった謎であったが、それを今私は解こうとするのである。それについてはまず心を潜めて歴史とそうして文化の進歩の跡を顧りみる事である。としたらそのところに何を発見するであろうか。ところがそれは意外にも人類の闘争によって、いかに文化の進歩を促進したかという事である。しかしも人類が最初から闘争を好まず、平和を愛していたとしたら、物質文化がたとえ生れたとしても、その発達は遅々たるもので、到底今日見るがごとき目覚しい発達は遂げ得られなかったに違いない。この事をよく考えてみたら、悪なるものがいかに必要であったかが分るであろう。ところでここに問題がある。それはこの善悪の摩擦が文化の進歩に必要であったとしても、悪は無限に許されたものではない。いつかは停止される運命が来るに決っている事であって、今日その時が来たのである。何となれば現在の文化形態をみればよく肯ける。すなわち戦争手段としての驚くべき武器の進歩である。言うまでもなくかの原子破壊の発見であって、この発見こそ人類の破局的運命を示唆しているもので、もはや戦争不可能の時期の来た事の表われでなくて何であろう。これによってみても闘争の根本である悪なるものの終焉が、もはや寸前に迫っている事に気付かなければならない。もちろん常に私の唱える昼夜の転換の如実の現われでもある。これを歴史的に見てもよく分る、しかし悪を無制限に許されたとしたら、社会はどうなったであろう。人間は安心して業務に従事し、平和な生活を営む事は出来ないで、ついには魔の世界となってしまい、一切は崩壊するに決まっている。としたらある時期までの統制も調節も必要となるので、その役目として生れたものが宗教であり、その主役をになった者がかのキリストである。同教の教義の根本が人類愛であるのもよくそれを物語っている。それによってともかく白色民族の社会が、魔の世界とならずに、今日見るごとき素晴しい発展を遂げたのも、全くキリスト的愛の賜物でなくて何であろう。以上によってキリスト教発生の根本義が分ったであろう。
宗教篇 経と緯
およそ天地の真理を知る上において、経と緯の意味を知る事が最も肝要である。この事は今までにも幾度となく説いて来たが、尚一層詳しく徹底的にかいてみよう。それについてはまず根本的認識である。それは私が常にいう日は火で、火は経に燃ゆるものであり、月はその反対に水で緯に流動するものである。したがって日の本質は高さであり、月の本質は広さである。この理によって今地球を説明してみると、地上の空界は水素が緯に流動しており、火素は経に上下をつらぬいている。つまり経緯の精があやのようになっており、布地のごときものである。しかもそれが想像を絶する程の密度であって、この事実として手近な例ではあるが、人間が横臥すれば寒いのは、緯に流れている水の精によるからであり、起きて経になれば暖かいのは、経に昇降している火の精によるからである。又火は霊的、精神的、陽であり、水は体的、物質的、陰である。この理は世界の東西文化をみてもよく分かる。東洋は経であるから霊的、精神的であるに対し、西洋は経で体的物質的であるから、今日のごとき科学文化が発達したのである。宗教においても仏教は経であるから、経文といって経の字を用いており、祖先を崇拝し、子孫を重視するとともに、孤立的であるに反し、キリスト教は祖先を祀らず、夫婦愛を基調とし、隣人愛を本義とし、どこまでも国際的緯の拡がりである。