総篇 悪と守護霊

 前項のごとく、現在まで必要であった悪が、不必要になったとしても、そうたやすく追放される訳にはゆかないが、それについての神の経綸はまことに幽玄微妙なるものがある。これは追々説いてゆくが、ここで前もって知らねばならない事は、そもそも宇宙の構成である。言うまでもなく宇宙の中心には太陽、月球、地球の三塊が浮在している。そこでこの三塊の元素を説明してみると、太陽は火素、月球は水素、地球は窒素というようになっており、この三元素はもちろんおのおのの特質をもち、それぞれの本能を発揮しているが、右のうちの火素、水素の二精気が密合して大気となり、地球をいにようしつつ、一切万有の生成化育をいとなんでいるのである。

 そうして地球上のあり方であるが、これは陰と陽に別けられている。すなわち陽は火の精、陰は水の精であって、火は経に燃え、水は緯に流れており、この経緯が綾状となって運動している。この状態こそ想像もつかない程の超微粒線の交錯であって地上ある程度の高さにまで達しており、これが空気の層であり、大気でもある。右のごとく陽と陰との本質が具体化して、火水、熱冷、昼夜、明暗、霊体、男女等々に表われているのである。又これを善悪に分ければ陽は霊で善であり、陰は体で悪である。この意味において善も悪も対照的のものであって、これが大自然の基本的様相である。

 この理は人間を見ても分るごとく、人体は見ゆる肉体と、見えざる霊の二元素から成立っており、体と霊とは密接不離の関係にあって、人間が生命を保持しているのもこの両者の結合から生れた生命力によるのである。ところがここに一つの法則がある。それは霊が主で体が従であって、これは事実がよく示している。すなわち人間霊の中心である心に意欲が起るや、体に命令し行為に移るのであるから、霊こそ人間の本体であり、支配者であるのは明かである。そこで霊は何がゆえに悪心を起すかというと、これが最も重要なる焦点であるから詳しくかいてみるが、それにはどうしても宗教的に説かねばならないから、そのつもりで読まれたい。というのは善悪は心の問題であるからである。

 さていよいよ本論に移るが、右のごとく人間は霊と体との両者で成立っている以上、肉体のみを対象として出来た科学では、いかに進歩したといっても一方的跛行的であってみれば、真の科学は生れるはずはないのは分り切った話である。これに反し我々の方は霊体両者の関係を基本として成立ったものである以上、これこそ真の科学でなくて何であろう。

 以上のごとく善悪なるものは心すなわち霊が元であり、しかも霊主体従の法則を真理として、これから解き進める説を充分玩味するにおいては、根本から分るはずである。ところでまず人間というものの発生であるが、言うまでもなく妊娠である。これを唯物的にいえば男性の精虫一個が、女性の卵巣に飛込んで胚胎する。これを霊的に言えば神の分霊が一個の魂となって宿るのである。そうして月満ちてオギャ─と生れるや右の魂以外別に二つの魂が接近し、ここに三つの魂の関係が結ばれる。右の二つの魂とは一は副守護霊といって動物霊であり、多くは二、三歳の頃に憑依する。今一つは正守護霊といって直接憑依はしないが、絶えず身辺に着き添い守護の役をする。もちろん右の二霊共一生を通じて離れる事はないから、言わば人間は三者共同体といってもいい。その様な訳で第一に宿った魂こそ本守護霊と言い、神性そのものであり、これこそ良心でもある。昔から人の性は善なりというのはこれを指すのである。第二の副守護霊とは右と反対で悪そのものであるから、常に本守護霊の善と闘っているのは誰も自分の肚の中を思えば分るはずである。第三の正守護霊とは祖霊中から選抜されたものであって、不断にその人の身辺に付添い、守護の役目をしている。例えば災害、危難、病気、悪行、怠慢、堕落等々、全てその人を不幸に導く原因を防止する。よく虫が知らせる、夢知らせ、邪魔が入る、食違い、間が悪いなどというのがそれである。又何かの事情で汽車に乗遅れた為、危難を免れる事などもそれであり、悪に接近しようとすると故障が起き、不可能になったりするのもそれである。そうして本霊と副霊とは常に闘っており、本霊が勝てば善を行うが、副霊が勝てば悪を行う事になるから、人間は神と動物との中間性であって、向上すれば神のごとく、堕落すれば獣のごとくになるのは世間を見てもよく分るであろう。では一体副霊とは何の霊かというと、日本人は男性にあっては天狗、蛇、狸、馬、犬、鳥類等の死霊が主で、その他種々の霊もあり、女性にあっては狐、蛇、猫、鳥類等の死霊が主で、他にも色々な霊があり、又この副守護霊以外臨時に憑く霊もある。こんな事をいうと現代人は馬鹿馬鹿しくて到底信じられまいが、これは一点の誤りなき真実であって、これが信じられないのはその人は唯物迷信の為であるからこの迷信をいつてきすれば直に分かるのである。何よりも人間はその憑いている動物霊の性質がよく表われているもので、注意すれば何人にも分るはずである。

 右のごとく臨時に憑く霊も、ほとんどは動物霊であって、たまには人間の死霊もあり、ごく稀には生霊もある。では臨時霊が憑く理由は何かというと、言うもまでその人の霊の清濁によるので、曇りの多ほど程悪霊が憑き易く、又元からの副霊の力も増すから、どうしても悪い事をするようになる。この理によって現代人の大部分は霊が曇り切っているから、悪霊が憑きやすく活動しやすい為、犯罪が増えるのである。ところがそれとは反対に神仏の信仰者は曇りが少なく、善行を好むのは魂が清まっており、悪霊を制圧する力が強いからで、ここに信仰の価値があるのである。したがって無信仰者は平常善人らしく見えても、何時悪霊が憑依するか分らない状態にあるので、一種の危険人物といってもいい訳である。この理によってより良き社会を実現するには、清い魂の持主を増やすより外に道はないのである。そうして本来魂なるものは一種の発光体であって、動物霊はこの光を最も怖れるのである。ところが現代人のほとんどは魂が曇っており、動物霊という御客様はまことに入りいいようになっているから、たちまち人間は躍らせられるので、百鬼夜行の社会状態になっているのも当然である。しかもその様な事に盲目である為政者は、只法と刑罰のみによって悪を防止しようとしているのであるから、全然的を外した膏薬貼で効果の挙がるはずがないのである。何よりも国会を見ても分るごとく、ほとんどの議案は法律改正と追加という膏薬製造法であるから、これを常に見せつけられる我々は、その無智に長大息を禁じ得ないのである。

 以上のごとく悪なるものは大体わかったであろうが、この根本解決こそ信仰以外にない事は言うまでもない。しかし単に信仰といってもその拝む的である神にも上中下の階級があり、それが百八十一級にも及んでいるとともに、正神と邪神との差別もあるから、これを見別けるには相当困難が伴うのである。世間よく熱烈な信仰を捧げても思うような御利益がなく、病気も治らず、行いも面白くない人があるが、それはその的である神の力が弱く、邪神の活躍を阻止する事が出来ないからである。しかも困る事にはこの状態を見る世人は、これこそ低級な迷信と思い、たまたま本教のごとき正しい宗教を見てもそれと同一視するのであるから実に遺憾に堪えないのである。そうして昔から一般人は神とさえ言えば、只尊いもの有難いものと決めてしまい、差別のあるなど知らない為、はなはだ危険でもあった。もっとも今日まで最高神の宗教は全然現われなかったからでもあるが、喜ぶべしここに最高神は顕現され給うたのである。

 それが為今日までの神はたとえ正しく共次位の階級であるから、その力が弱く正邪相争う場合一時的ではあるが悪の方が勝つので、これを見る人々はそれに憧れ、真似しようとする。特に野心あり力量ある者程そうであるのは、歴史を見ても分る通り、幾多英雄豪傑の足跡である。なるほど一時は成功しても最後は必ず失敗するのは例外がないのである。これを霊的にみるとそのことごとくは邪神界の大物の憑依であって面白い事には最初はトントン拍子にゆくので有頂天になるが、それもある程度までで必ず挫折する。そうなると憑依霊はたちまち脱却してしまう。我々の知る範囲内でもカイゼル、ムッソリ─ニ、ヒットラ─のごときがそうで、失敗後は人が違うかと思うほど痴呆暗愚的に気の抜けたようになったが、これは大きな邪霊が抜けた後は誰でもそうなるものである。そうして驚くべき事は邪神界の総頭領は、今から二千数百年前、世界の覇権を握るべく、周到綿密にして永遠な計画を立て、現在まで暗躍を続けつつあるが、正神界の方でもこれに対立し戦っているのである。その神としてはキリスト、釈迦、マホメット、国常立尊の系統の神である。

 以上のごとく主神は正神と邪神とを対立させ闘争させつつ文化を進めて来たのであるが、その結果ついに邪神の方が九分九厘まで勝ったのが現在であって、ここに主神はいよいよ一厘の力を顕現され、彼等の大計画を一挙に転覆させ給う、これが九分九厘と一厘の闘いであって、今やその一歩手前にまで来たのである。したがってこの真相を把握されたとしたら、何人といえども翻然と目覚めない訳にはゆかないであろう。

「文明の創造(未発表)」 昭和27年01月01日

文明の創造(未発表)