東方の光

名人の思い出

 時代は前後するが、教祖はまた若い.ころから音曲(日本の伝統芸能の中におけるさまぎまな音楽)を好み、義太夫、常磐津、清元、新内、筑前琵琶、長唄などを楽しんだ。  義太夫の名人として教祖があげているのは、明治、大正にわたっ …

アルプス紀行

 大正の未ごろ、教祖はしきりに各地の山に登った。関東近辺のおもな山にはたいてい登っている。これほどまでに教祖を山へいざなったものは、なんであったのだろうか。  いにしえから、山はその美しい容姿ゆえに、あるいは、人を容易に …

奥日光紀行

 教祖はまた、槍ヶ岳登山と同じころの大正一二年(一九二三年)八月なかば、奥日光から奥会津へはいり、ふたたび塩原へ折り返す山旅をしている。これは当初、奥日光の湯元から川俣温泉を越えて、湯西川へ抜ける予定であったのが、途中、 …

和服と洋服

 教祖はふだん、兵児帯を無造作にくるくると巻き、着流しのままで人に会ったりした。そこで教祖は服装に無頓着であると早合点する者もあった。しかし、事実は、まったく反対で、身だしなみには大変鋭敏な感覚をもっていた。このことは教 …

食事のさまざま

 食事に好き嫌いの無かった教祖は、和食、洋食、中華料理など、なんでも食していたが、味に関しては、衣頬と同様に、これまた非常に鋭敏であった。  和食で好んだものは、まず天ぷらで、とくに海老、鯔〈ぼら〉、穴子、それから野菜で …

江戸っ子と伊勢屋

 何をもって江戸っ子とするか、その条件をめぐつてこれを厳密に定義付けるとなると、いろいろむずかしい。たとえば、江戸っ子は日本橋の本町に生まれ、乳母に大事に育てられた上流の町人である──などという説がある。また日本橋から新 …

分刻みの神業

 終戦後の神業は、それまでの雌伏(将来の発展を心に期しながら困難に耐える)の時代から、いっきに飛躍の時代を迎えて、教祖の日々の生活は大変な忙しさとなった。聖地造営の指揮をとり、多くの信者に面会して指導し、救いの活動の根源 …

日課

 (一)起床 午前七時四五分、係の者が「お時間です。」と声をかけてラジオのスイッチを入れる。教祖はNHKの「朝の訪問」を床の中で聞いた後、八時に起床する。  (二)入浴 入浴は朝夕二固であるが、朝は八時から一〇分ほど、洗 …

面会の起源と変遷

 すでに記した通り、昭和一五年(一九四〇年)一一月の第二次・玉川事件を契機として教祖は第一線の浄霊活動から身を引いた。昭和一〇年(一九三五年)の立教以来ずっと続けてきた浄霊や入信のための教修、お守りの下付などはすべて弟子 …

光を受けて

 宝山荘時代教祖は、幹部の弟子たちには、  「面会はご神業であり、一つの経綸である。」 と述べて、面会を重要視し、時間に遅れたり、寄り道して来たりすることのないよう、固く戒めた。  ある面全日、幹部のTが遅刻してしまった …