分刻みの神業

 終戦後の神業は、それまでの雌伏(将来の発展を心に期しながら困難に耐える)の時代から、いっきに飛躍の時代を迎えて、教祖の日々の生活は大変な忙しさとなった。聖地造営の指揮をとり、多くの信者に面会して指導し、救いの活動の根源となる神体やお守りを揮毫し、論文を口述し、美術を学ぶというように、朝から深夜まで、それこそ文字通り、分刻みに仕事が続けられた。教祖は、みずからのこのように多面にわたる生活について、

 「宗教家、政治、経済、教育の研究家、文筆家、文明批評家、特殊医学者、歌人、画家、
書家、建築設計家、造園業者、農業者、美術、音楽批評家等々実に多彩である。」

と仕事の内容を職業別に列記し、

 「私の目的は人頼政済にあるのであるから、一挙一動その線からはづれる筈はない。」

と述べている。

 “時は金なり”という金言があるが、教祖の毎日の生活は、まさに「時は救いなり」と言えるほど、目の回るような忙しさであった。したがって、その身辺にはいつも十数人の奉仕者がいたが、時間にルーズな奉仕者がいると、たちまち神業を進めるうえに影響が出てくるので、教祖はこれら奉仕者に、時間の厳守を心がけるようよく注意を与えた。
 ある時、奉仕者の一人が、

 「これから一時間ほど床屋へ行ってきたいのですが。」
と申し出て調髪に出かけた。ところが折りあしく床屋は非常に込み合っていて、とても一時間で済みそうになかった。本人は心の片隅で教祖との約束が気になったが、“まあ、お許しもいただいたことだし”と気を許し、調髪を終えて帰った時には、一時間をはるかに超過していた。教祖はその者に、

 「お前は、何時間の余裕がほしいといって出かけたのか。込んでいて遅くなったことに文句を言うわけではないが、本当に私の仕事を大切に思う心があるなら、前もって床屋へ電話をし、『これから調髪に行きたいが、一時間くらいでやってもらえるか。』と確かめ、それから出かけるのが本当じゃないか。たとえば何時の汽車に乗るという予定で食堂にはいったとする。乗るまでに三〇分しか時間がないとしたら、三〇分で食べられるか確かめて注文するだろう。些細なことと思うかもしれないが、些細なことが守れないようで、どうして大成することができるか。」

と、筋道をたてて、こんこんと奉仕の心を説いて聞かせた。奉仕者はこの注意が肚の奥底にこたえ、
 「なんと心の砕き方が足りない自分なのか。」
と深く反省をしたのである。

 ぎっしりと予定の詰まった教祖の日々の生活は、常人では到底三日とは続かないくらいのものであったといえる。忙しいスケジュールを、あたかも時計代わりにラジオを使い、その番組に合わせながら行なっていくので、これ以上の正確さは考えられない。そのため、教祖の使う部屋には必ずラジオがセットしてあった。そして庭に出る時には側近の者が必ず携帯ラジオを用意したのである。そのころはまだテレビは実用化されておらず、ラジオが中心の時代であった。

 以下に記す日課によって、昭和二八年(一九五三年)ごろ、熱海の碧雲荘における教祖の生活がどのようなものであったかがわかるであろう。