光を受けて

 宝山荘時代教祖は、幹部の弟子たちには、

 「面会はご神業であり、一つの経綸<けいりん>である。」

と述べて、面会を重要視し、時間に遅れたり、寄り道して来たりすることのないよう、固く戒めた。

 ある面全日、幹部のTが遅刻してしまったことがあった。すると教祖は遅れてきたTに、

 「指導すべき立場に在る人間が、時間に遅れるとは何事か。定刻までに来ている人に気の毒ではないか。私も話をするのを待たねばならない。どんな場合でも、上の地位にいる者は、早目に来ていなければいけない。」
と、 厳しく叱った。

 東京の代々木で布教していた布教師のNは、ある日新しい入信者を連れて宝山荘へおもむき、
 「今日は日曜なので、新しい人をご案内しました。」
と挨拶をした。すると、面会が終わってからのことである。教祖はNを別室へ呼んで、

 「さっきの、『日曜だから…:。』とは何事か。日曜の方を主にした言葉は、神様に大変なご無礼ではないか。」

と、順序を失したことを厳しく叱責した。Nは心からわびてようやく許されたのであった。

 終戦後間もないころのことである。二本木暉子は、カリエスの持病があったが、ふだんは決められた面会日に行くことを欠かしたことはなかった。だが病状が思わしくなく、ひどく痛むような時には、道中の混雑も気になり、行かなくても許されるものと思っていた。

 ある時、そうしたつらい症状が長びいたので、三度続けて面会を休んだことがあった。すると井上茂登吉の妻の達江から速達がきた。
 「二本木先生、今度ご面会がいただけなかったら駄目ですよ。じつは主人が、二本木先生がご面会できない時は、必ずおわびしていたんです。そしてきょうのご参拝の時に『明主様もう一度だけお許しください。』とひれ伏してお願いしたのです。だから今度来られなかったら駄目ですよ。」
と書いてあった。それを読んで二本木はすっかり驚いてしまい、つぎの面会日には万難を排して教祖のもとへ行ったのである。すると教祖は、

 「たとえ夜中になっても来なければいけない。」

と言った。二本木は面会にかける意志の甘さを反省し、この時を境に、どんな困難があろうとも面会に行くことを決意し、実行したのである。

 このような指導を受けた弟子たちは、面会の意義を厳しく受け止め、[光をいただく面会」、「力をいただく面会」として、姿勢を正し、誠を込めてのぞんだのである。

 昭和二三年(一九四八年)九月のことである。アイオン台風という大型の台風が東日本を直撃し、このため交通網は寸断され、二千余人に及ぶ死者、行方不明者を出したことがあった。

 後に「宝山教会」の会長となった山本二郎は、いつも宇都宮から東北本線で、東京を経て、箱根あるいは熱海に面会に来ていた。しかし、この日、東北本線の小山から東京までは、とても列車の動く状態ではなかった。問い合わせたところ遠回りになるが、一度東北本線の下りに乗り、福島県から新潟県を回って行けば、東京へ出られるという。そこで切符を買ったが、どうしても下りの列車に乗る気がせず、運を天に任せて東北本線上りの列車に乗った。小山で両毛線に乗り換えて佐野へ、佐野から東武佐野線で館林まで行ったが、その先が不通であった。途方に暮れていると、復旧資材を満載した工事用の電車が出るというので飛び乗り、頼み込んで熊谷に着くことができた。そこからは順調に、無事箱根に到着したのであった。

 面会の席上、教祖は山本を見て大変驚き、
 「あんた、どうやって来たんですか?」
と尋ねた。山本は教祖の心配りに感激し、一部始終を報告すると、教祖は、
 「どうやって帰るんです?」
と聞いた。思わず、
 「来た道順で帰ります。」
と考えもしないうちに、答えが口に出てしまった。すると教祖は、
 「ああ、それでいい。」
という力強い返事であった。

 山本が上野まで来てみると、復旧が進んで列車は徐々に運転を再開している。ちょっと迷ったが、教祖に答えた通り回り道をして帰ることにした。そして順調に宇都宮にたどりついたのである。後になって、結局、その道が一番早かったことがわかり、
 「やはりお見通しだったのだなあ。」
と感動を押えることができなかった。

 少し年代が下がるが、箱根でのことである。参拝の行事が終わり、面会の時間がきたので担当者が教祖を迎えに行き、参拝者数を報告した。すると教祖は、
 「人数が馬鹿に少ないではないか。」
と言った。担当者は咄嗟に、
 「たぶん農繁期のためではないかと存じます。」と答えた。すると教祖は、にわかに厳しい顔をして、
 「なにっ、参拝日をなんと心得ている。どんなに忙しい仕事を控えていても、万難を排して参拝に来るのが信者ではないか。農繁期で来られないなんてことはない。そんな了見じゃ仕事もうまくいかない。第一、参拝しようという想念があったら、神様は必ず支障のないようにしてくださるものだ。そんなはずはないからよく確かめてこい。」
と大変な叱責であった。

 さっそく調べてみると列車事故があって信者の到着が遅れていることがわかったので、教祖は時間を三〇分遅らせて信者の参集を待った。担当者は軽率な発言を恥じるとともに、自分の誤りを即座に洞察した教祖の慧眼に改めて畏敬の念を覚えたのである。

 教祖は自分が実行しないことを人に要求するようなことはけっしてしなかった。これは面会に関しても同様である。万難を排して来い、と人に言うからには、教祖自身、万難を排して面会にのぞんでいたのである。

 昭和二四年(一九四九年)ごろのこと、教祖はいつものように面会を終えて、部屋へ帰るなり、歯痛に顔をしかめながら、つらそうに自分で浄霊を始めた。痛みが激しく、起き上がることもできずに、身もだえして、身の置き場もないという様子であった。

 このように、教祖はどんなに浄化がひどくても神業の予定を変更せず、人前ではけっしてそのつらさを見せることはなかった。そして神と共にあり、神業を進めるという自分の使命に身命を賭していたのである。

 論文の朗読係をしていた山本慶一は、面会が終わるとすぐ挨拶に行くことになっていたので、計らずも教祖のこのような姿を見たのである。そして、その使命に徹した姿から、自分たち奉仕者も命がけで尽くさなければ申しわけないと反省した。それまでの心がけが、いかに生ぬるいものであったか、その反省が骨の髄までしみ込む思いであった。

 このように面会の場は、教祖の至高の霊格と、救世への命がけの情熱が、この教祖の心によって弟子や信者のうちに触発された崇敬の思いと命がけの誠と、火花を散らして出会う真剣勝負の研鑚の場であった。そして、それは同時にまた、高き霊性に触れて、救いの力徳を与えられる聖なる場でもあった。道を求め、光を求めて教祖のもとへ集まった信者たちは、教祖の姿に接すると、それまでの苦労も消え、ただうれしく有難い気持ちでいっぱいになる。教祖の片言隻語、一言半句も聞きのがすまいと、必死に聞き耳を立てたのであった。そのようにして、神秘を解明する智慧の光に浴した弟子たちは、混乱の世に生き抜く力、さらには人の苦しみを救う力を授かることができたのである。

 地方にあって努力しながら、神業が行き詰まっていた布教師も、教祖に面会をすることによって、たとえ教祖から特別な言葉をかけられるようなことがなくても、問題を解決する道に気付かされることが数多くあった。また現実に救われた事実の証しに感謝し、そのことを報告するために面会に来た信者の中から、教祖の姿に接しただけで、これからの自分の全生涯を神業に捧げようと決意する者も生まれてきた。これらの事実はまさに、教祖のもつ至高の霊性が衆生の魂を“無為にして化した”結果というべきであろう。
 教祖はよく、
 「信仰は教え諭すものではなく、徳によって治めるものである。」

と言った。信仰は言葉で言い聞かせてわからせるのでなく、説く人の魂の発揮する徳によってこそ、人を感化しうるものだという意味である。

 昭和二一年(一九四六年)ベトナムのサイゴンから引き揚げてきた西垣寿太郎は帰還後二か月経て入信した。一度は骨を埋めるつもりで渡ったインドシナで思いもかけぬ敗戦に遭遇し、描いていた事業開発の夢もむなしくくずれ去った。そのうえに「戦犯」(日本を占領した連合軍司令部によって責任を問われた戦争犯罪人の略称)の容疑でイギリス軍に捕えられ、抑留生活を送る悲哀をなめた。やがて容疑も晴れた西垣は、一時は死を覚悟してまで事業開発の志を貫こうとしたにもかかわらず、それが果たし得なかった苦悩に悶々とした心をいだいて日本に帰って来たのであった。心の傷を癒すべく郷里へ帰った二日目のことである。たまたま、世界人類を救うという大目標を掲げ、その具体策を示す教えに触れる機会を得たのである。
 「これだ、わが生涯を捧げて悔いない死に場所はここにある。それを見つけた。」
と、暗黒の中で光明の差し込む思いであった。それから浄霊による布教を始め、翌二二年(一九四七年)の正月、教師に連れられ、初めて熱海の東山荘で面会の機会を得た。西垣は教祖の姿に接するなり、
 「神様だ!」
という叫びが肚の底からほとばしり出た。脳天が電流で衝撃を受けたようにしびれ、ただただ平伏するばかりであった。それは、いまだ経験したことのない魂の歓喜であった。教祖の何気ない姿の中に秘められた崇高な霊気を直感し、これまでの人生観が根底から覆えされる魂の覚醒、新生ともいうべき神秘な体験であった。この日を契機に西垣はすべてをなげうって布教に挺身するにいたった。そうして広島県を中心に教線を広げ四年後には、「西光教会」を発会することになるのである。

 西村良光も、また、戦前から、戦中にかけて海外に雄飛しようとした青年の一人であった。幼いころからの病弱にもかかわらず、戦前青雲の志をいだいて満州におもむいた。しかし渡満後、しばらくして病にかかり、無残にも夢破れて、病身を祖国日本の郷里に休めることとなった。その後間もなくして、軍隊の召集を受けふたたび中国大陸に渡った。苛酷戦闘にあって、仲間が一人また一人と倒れていく中を奇蹟的に生き延びて、昭和二一年(一九四六年)の六月に帰還したのである。

 ところが日本へ帰るや、またしても重症の胃潰瘍を発病した。だが幸いに神縁を得て奇蹟的に救われたのである。彼は入信するや、ただちに未知の地で布教を始めた。西村が初めて面会の機会を得たのは、入信の翌年、昭和二二年(一九四七年)のことである。教祖が出てきて、みなが頭を下げても、西村は、
 「どんな方かぜひ知りたい。」
という思いから、そっと頭を上げて一心に教祖の一挙手一投足を見詰めていた。すると不思議なことが起こったのである。教祖から発する霊的な力のなせる業であろうか、突然その姿がかなたへ遠ざかるように思われたのである。夢中で眼をこすると、今度はその姿が元へ戻る。こうして同じことを三度繰り返すうちに、いつしか教祖の実体を見届けようという不遜な気持ちが消えて、自然に深々と頭を下げている自分を見出したのであった。

 教祖の姿が言いようのない迫力で西村に迫ってくる。西村はそこに無言の神威を感じた。いっさいを教祖に捧げようという心になったのはその瞬間であった。西村はそれ以来、不屈の信仰をもって近畿、九州などの各地を布教した。やがて昭和二三年(一九四八年)、北海道の旭川に「旭光教会」を作るのであるが、その信仰の礎は、じつに東山荘における面会の一瞬に定まったのであった。

 キリストの奇蹟を今に顕はしつ世人を救ふ人造るわれ

 面会は宝山荘から箱根における神山荘の上の間、熱海における東山荘・別館へと引き継がれた。やがて教線の発展とともに、昭和二三年(一九四八年)からは箱根・早雲寮(日光殿)、熱海・清水町仮本部という、より広い場所で、より多くの人々が面会できることとなった。それに応じて面会の形式も少しずつ変わっていった。

 戦後の大発展の原因の一つは、全国津々浦々に見られた奇蹟の体験の累発(次々に発生すること)によるものであったが、そのような奇蹟が生まれる原点こそ、この面会そのものに在ったのである。幾多の体験例にも見られるように、戦争末期、激しさを増した空襲下にあって、あちこちで列車が爆撃され、いつ命を失うかわからない状況の中にあっても、命がけで面会は続けられた。また終戦になり、空襲の恐れと特高の監視はなくなったものの、窓から出入りする超満員の列車に乗り込んで、幹部や熱心な信者は、地方から箱根、熱海へと、競って面会行ったのである。面会に出かける一人一人の胸には、
 「明主様にお会いしたい。明主様にお会いして力をいただきたい。」
という、燃えるような思いがたぎっていた。あらゆる問題を解決する力を与えられ、どんな困難も乗り越えられる勇気を得られるのは、教祖のもとにおもむく以外になかったからである。

 こうして面会によって光を与えられた弟子、信者たちは喜びで胸をいっぱいにし、それぞれの神業宣布の場へと帰って行った。

 まず参拝が行なわれ、その後に教祖の面会が行なわれるという参拝の形ができあがるのは、昭和二三年(一九四八年)、熱海市清水町に仮本部が設けられたころからである。なおこの当時、日光殿、及び清水町仮本部には教祖の揮毫した観音像が神体として掛けられており、参拝は、集まったものが幹部の先達によって、神体に礼拝するという形で行なわれた。このように世界救世故における参拝の歩みをたどれば、その源は、教祖を慕<した>い、教祖に救いの力を求め、また身に受けた守護への感謝を報告する面会に始まっていることがわかるのである。