献上

 教祖のもとへ面会に来る信者は、さまざまな品物を持参して教祖に捧げることが多かった。米や芋、豆類から野菜、魚類、果物、菓子など、いずれも苦しみから救われたことに対する感謝の心から捧げられた品々である。そこには、
 「これはぜひ明主様に召し上がっていただきたい、使っていただきたい。」
という願いが込められていた。したがって、戦時中から戦後にかけての、物資不足の時代にあっては、とりわけ献上の品々が沢山寄せられた。教祖の日常生活にできるだけ不自由のないようにとの願いから、全国の信者が心を込めて届けたものであった。

 そのころは、面会の席に献上品が持ち込まれたあと、教祖が座に着くと、井上茂登吉がその一つ一つを取り上げて、品名や数量、そして献上した人の氏名を教祖に披露した。たとえば、
 「東京の○○さん、和菓子、ようかん一箱。」
という風であった。

 全部の披露が終わると、教祖は必ず頭を下げて感謝の意を表わしたのである。そのうち、面会に来る人がふえるにつれ、品物の量が増大してきたこともあり、昭和二四年(一九四九年)ごろからは、面会の席上での披露は省略され、教祖には目録で報告されるようになった。

 終戦まであと二月という昭和二〇年(一九四五年)六月のことであった。名古屋で布教をしていた渡辺勝市は、鮎の好きな教祖に喜んでもらおうと、新鮮な鮎を氷詰めにした魔法瓶を持って名古屋駅まで来た。しかし、おりからの空襲で、列車は動かず、復旧の見通しもたたないという。途方に暮れたが肚をすえて改札口の前に腰を降ろし、祈るような心で列車の動くのを待つことにした。一時間ばかりもたったであろうか、突然、駅構内の放送があって東京行きの列車が出るという。こうして鮎は翌朝の教祖の食卓に間に合った。ところが別室で渡辺が朝食をとっていると、教祖が足音高く台所まで出て来て、
 「これは、誰が焼いたのか。せっかく生きのいいのを食べさせようと持ってきてくれた人の真心を、踏みにじる気か!」
と厳しい叱責であった。鮎は焼きそこねた鰯の干物のように、皿の上に乗っていた。

 渡辺は、自分で鮎を焼くのは初めての経験であったが、
 「私がやらせてもらいます。」
と、魔法瓶から取り出した鮎を塩焼きにして教祖の食膳に供した。しかし、内心焼き加減がどうであったか気がかりであった。すると、しばらくして朝湯へ行く途中、渡辺の姿を見かけた教祖は、
 「うまかった、とてもうまかった。」
と声をかけたのであった。教祖の心のこもったこの一言で、渡辺はそれまでの苦労も疲れも吹き飛んでしまったのである。

 渡辺は鵜飼で知られる岐阜県長良川沿いの寒村の出身である。貧しい農家から身を興し、幼少のころから多くの苦労を経験した。教祖を初めてたずねた昭和一八年(一九四三年)ごろは、三〇代の働き盛りで、事業にも成功し、東京都内に一〇軒の店舗をもって青果業を営んでいた。渡辺を信仰へ導いたのは、同じく鮮魚商の店舗を何軒か経営していた、大沼光彦後の「神成教会」会長・さらに教団総長)である。そして渡辺を教祖のもとへ案内したのは渋井総斎であった。

 渡辺は面会を通して教祖の話を聞き、またその姿に身近に接することがたび重なるにつれて、教祖の一言半句、一挙手一投足が生きた教えであると感じられるようになった。それまでは、この世に有り得ないものと考えていた「絶対」という言葉が、こと教祖においては事実として存在することを確信したのである。それは「神のような人がこの世におられるのだ。」という畏れにも似た感動であった。

 こうして教祖のすべての面に魅せられ、昭和一八年(一九四三年)入信と同時に、天秤棒(両端に荷物をつるし、肩でかつぐための固い棒)一本から築いた全財産をなげうって、神業に命を懸ける身となり、中京方面の教線の発展に大きな貢献<こうけん>をしたのである。戦後間もなく「中京教会」会長となり、昭和四四年(一九六九年)には教団の管長となった。

 教祖は献上の品々の値段や量ではなく、それらに込められた献上者の誠心を何より尊んだ。
たとえわずかなものでも喜んで受け大切に扱った。ある時、献上の品の中にアメリカ煙草がバラで一〇本あったが、それでも教祖は快く受け取った。

 昭和二七年(一九五二年)の春のある日、教祖は碧雲荘の裏口から散歩に出かけ、しばらくして帰ってくると、ほうれん草をゆでて持参するようにと指示をした。そこで奉仕者の一人がさっそく、ほうれん草を買いに出かけた。それから一〇分ほどして教祖からふたたび問い合わせがあったので、ただ今買いに行っておりますと報告すると、教祖は、
 
 「私は、ほうれん辛が食べたいんじゃない。今さっき、裏口を出てみると、ごみ箱に少し黄色くなったほうれん草が捨ててあった。これは信者さんが私の説く自然農法に従って心を込めて、やっとできたのを神様に捧げるために遠い所から持ってきたものだ。作った人の気持ちになったら簡単に捨てることはできないはずだ。」

と言ったのであった。この言葉からもわかるように、信者からの献上の品々に込められた誠心は、その行きつくところ、神に捧げられた感謝の表われであることを教祖は深く感じとっていた。神に捧げられた、この感謝の思いが、教祖に捧げられるのは、教祖が神人合一の立場で神業を進めていたからにほかならない。それゆえ教祖は、品々に込められた信者の心を何より大切に思い、ないがしろにすることは、けっしてなかったのである。

 終戦直後のこと、平本直子のもとで布教をしていた専従者の所へ、アメリカに住む姉から、戦後の日本が物資不足で苦しんでいるのを心配して、衣類や食料品が送られてきた。そこで平本は、「あなたは明主様から命をいただいたんだから、お礼の気持ちで、これはこのまま明主様に献上させていただいたらどうか。」と言った。すると当人は、
 「明主様は小さいお方だから、これはどうかと思いますが。」と心配した。身体の大きいアメリカ人用の衣類であるから大きすぎるのではないかというわけである。しかし平本が、
 「そんな心配はせずに、アメリカの珍しいものを差し上げるということで、献上をさせていただきましょうよ。」
と勧めた。そこで、それをそっくり届けたのである。しばらくたって、平本は教祖から呼ばれた。
 「大きなシャツなど送って、わしを馬鹿にするにもほどがある。」
と叱られるのではないかと、平本は内心ビクビクしながら行くと、
 「この間はアメリカのいいものを有難う。」
と言う言葉であった。
 「明主様、あれは私の方の教師から献上させていただいたものです。」
と報告すると、
 「そうか、ではあんたからよろしく礼をいってください。」
との返事であった。平本は、ほっと肩の荷を降ろすとともに、「真心からの献上は、必ず明主様が喜んでくださる。」ということを、この一事から学んだのであった。

 また、教祖が好んだ薩摩芋についても、興味深い話が伝えられている。教祖は、同じ芋でもとくに埼玉県の川越産の芋を好んだ。これが自然農法によって作られたものであったことはもちろんである。ある年のこと、全国的に芋が不作で、川越から届けられた中にも小粒のものが交じっていた。賄い方では、大きなものから出していたが、最後には親指ほどの芋ばかりが残ってしまった。あまり小さいのはどうかと思い、別の芋を供した。すると教祖はすぐに、
 「あの芋はなくなったのか。」
と聞いたので、
 「小さいものばかりになってしまいましたので、別のお芋をお出ししました。」
と言うと、
 「私は信者の誠を食べているのだ。大きさは問題ではない。」と、諭したのであった。

 この話は、先のほうれん草の場合と同様、献上品に込められた心を尊ぶとともに、合わせて自然農法の実施農家に対する思いやりと、温かな配慮を忘れなかった教祖の姿をよく伝えている。

 教祖は、たとえ値の張る品物であっても、それが見栄や義理で献上されたものであると、けっして喜ばなかった。乗物の時間の都合や不精な気持ちから、途中で買ったり、近くへ行ってからあわてて間に合わせたりした物については、教祖は何も言わない。一方、ぜひ教祖に喜んでもらおうという願いから、いろいろ心配りして手に入れた品や、自分が本当に気に入って献上した品に対しては、感謝で受け取るというように、その心をしかと見抜いていたので、そういう時にはたとえば食べ物であれば決まって、
 「とてもおいしかったよ。」
と心からの札をいうのが常であった。

 ある日のこと教祖が、一人の弟子に、
 「これはあんたにあげよう。」
と献上品の一つを渡した。弟子はなぜ自分がもらったのかその理由がわからない。不思議に思いながら家に帰って包みを開いてみた。すると、一枚の名刺がはいっていた。それは到来物(よそからの貰い物)だったのである。到来物をよそに回してはいけないということはない。問題は到来物であることを断わらずに教祖に届けたその心にあると言える。その弟子は、たとえ教祖が包みをあけなくとも、中身を見通しであることを覚った。そしてさらに、無言のうちにそうした心のつかい方、誠心の表わし方を教えられたものと受け止めたのである。

 終戦直後の物資不足の時代のこと、弟子の石原幸作が四方八方へ手を尽くし、鰹節と伊勢海老を買って、さっそく教祖のもとへ届けた。帰ろうとすると、側近者から呼び止められ、つぎのような教祖の言葉を伝えられたのである。
 「この品には誠がこもっている。いいものを届けてくれて有難う。鰹節は日本の代表的な特産物の一つで、カツオという言霊もいい。このように誠を持ち続けるなら、きっと運命も開けて世に勝つでしょう。」

 石原はこの温かい言葉を、胸に抱きしめる思いで任地へ帰った。じつにこの一言がその後の運命を決定づけ、多くの人々を導くことが許されるようになったのである。

 石原が入信したのは、この少し以前、昭和一九年(一九四四年)のことであった。若いころから求道心が強く、さまぎまな宗教に触れたが、自分に満足を与える教えには出会わなかった。しかし一九年(一九四四年)、浄霊を教えられ、病に苦しむ知人を浄霊するためにお守りを受けた。そして浄霊を取り次ぐと、信じられないほどの大きな奇蹟が生まれ、痛が瘉えたのである。これに心をひかれ、さらに教祖の書いた『明日の医術』を読み、その内容に感銘して、より深く学びたいと望んだ。その結果、これこそ自分の求めていた教えであるという不動の確信を得ることができたのであった。こうして関西を中心に布教を始めた石原は昭和二二年(一九四七年)「大原教会」会長となった。そして昭和二五年(一九五〇年)、世界救世教発足後間もなく教団理事となり、後、総務部長として活躍した。その後さらに相談役等を歴任し、昭和四一年(一九六六年)二月二二日、六一歳で帰幽したのである。