(01) 誕生

新しい時代

 武蔵と甲斐の両国が境を接する奥秩父の甲武信岳に源を発する荒川は、途中、南東へと流れを変えて、関東平野の西部を潤し、旧利根川の傍流と出会いつつ、複雑な水系を形造りながら東京湾へと注いでいる。  この荒川の鐘ヶ淵のあたりか …

橋場

 教祖が生まれた橋場の町は、浅草の東の外れにある。その昔、石浜庄と呼ばれ、戦略上の要地として、事あるたびに戦の場となった土地である。かつて源頼朝は兵をあげて鎌倉にはいる途上、この川に舟を並べて浮橋を設けたが、その場所が現 …

一家の暮し

 教祖の一家は、父母の岡田喜三郎、登里のもとに、姉・志づ、兄・武次郎の五人暮しであった。いま一人、は留という姉があったが、教祖の生まれる一年前に早く世を去っていた。  そのころ親子五人が寝起きしていたのは、橋場町六三番地 …

曽祖父

 岡田家は教祖が誕生したころでこそ貧窮の底にあったが、明治の初めごろまでは、橋場からほど近い山谷浅草町に「武蔵屋」という屋号で代々「質屋」を営み、三十数軒の家作(貸家)もあって、大変富裕な家柄であった。  現在、国立国会 …

祖父母

 喜左衛門は、男子の跡継ぎに恵まれなかったので、娘の家寿〈やす〉(教祖の祖母)に婿を迎えたのである。その婿という人は、旅の行きずりに、ふと武蔵屋へ立ち寄った人物であったが、一目ぼれで喜左衛門は、その人物が気に入り、婿とし …

両親

 喜左衛門の死去によって、大黒柱を失った武蔵屋はその後どうなったか。当然、あとに残された家族の肩にゆだねられることになったが、商売に不慣れな母の家寿にも、また、富裕な家の御曹子として育った喜三郎にも、物に対する目利きと評 …