一家の暮し

 教祖の一家は、父母の岡田喜三郎、登里のもとに、姉・志づ、兄・武次郎の五人暮しであった。いま一人、は留という姉があったが、教祖の生まれる一年前に早く世を去っていた。

 そのころ親子五人が寝起きしていたのは、橋場町六三番地(現在地、台東区橋場二丁目二番、世界救世教・東京都本部・敷地内)の 粗末な借家であった。
 このころの生活について、教祖は後年つぎのように記している。

 「私の生れたのは東京都浅草橋場という町の貧民窟であった。今も微かに覚えているが、親父は古道具屋で店が三畳位、居間が四畳半位の二間きりであった。そこから十町位(一キロメートル余)ある浅草公園に毎晩夜店を出しに行ったものである。

 私が物心がついてから父からよく聞いた話であるが、今夜幾らか儲けないと、明日の釜の蓋が開かないというので、雨の降らない限り、小さい荷車へ僅かばかりのガラクタを積んで母は私を背負い、車の後押しをしながら行ったという事である。そんな訳で赤貧洗ふが如く、母は今でいう栄養失調という訳で、乳が碌々出ないので近所蓮窓寺という寺の妻君に乳貰ひに行ったものである。それから私が小学校を出る頃、家計も漸く多少の余裕が出来るようになったので、美術学校へも入れたの である。したがって子供の頃と、世帯を持ってからも、相当期間貧乏の味と金の有難味を充分植えつけられたので、それが非常に役立ってをり、今以て無駄と贅沢は出来ないのであるから、寧ろその頃の逆境に感謝している次第である。」                           
 *( )内は編集者・挿入

 当時の貧しさが彷彿とされる一文である。

 喜三郎親子が夜ごと商いに出かけた浅草公園は、そもそも山号・金龍山、寺号・浅草寺の境内地であった。この寺は天台宗(太平洋戦争後独立、聖観音宗総本山となる)に属し、本尊は宮戸川(隅田川)で網にかかった一寸八分(約五・五センチ)の黄金の聖観音(相好円満で大慈悲心を表わす仏)であるという言い伝えがある。寺の歴史は非常に古く、奈良時代までさかのばるともいわれるが、鎌倉時代には源頼朝や足利尊氏、江戸期には徳川家康など、各時代の代表的武将の厚い尊崇を受けた。とくに江戸時代にはいってからは広い寺領を賜わり、浅草はその門前町として栄えるようになった。

 浅草寺には、一年を通じて多くの参詣人が訪れる。新年の初詣は言うに及ばず、二月八日の針供養、七月の鬼灯市(ほおずきいち)といった、四季折々を彩る風物によって、参拝に訪れる人々は季節、季節の到来を知るのであった。

 喜三郎が店を開いた浅草公園は、明治の初め、浅草寺の土地を政府の直轄地として、ここを一大娯楽場に育てあげることによって東京の繁栄を図ろうとして生まれた官営の公園であった。

 狭い裏長屋の店先では売り上げもしれているので、喜三郎は浅草公園の人出をあてにして露店を開いたのである。しかし、お天気任せの商売は何かと困難が付きまとう。どこそこの家に売り物があると聞けば、荷車を引いて買いに出かけ、それを浅草公園の観音様の境内で夜店に出すという生活は、苦労の絶えない難儀なものであった。春や夏はまだよいのである。花に誘われて人々がそぞろ歩きする春の宵、また、暑さに耐えかねて夜風に吹かれる夏のころは、露商いにも張りが出る。灯龍を売る店が出る。小麦や米の粉をこね甘く焼いた紅梅焼を売る店がある。熱くて柔かな飴を竹の先に付けて、兎や蝶の形に吹いているのは飴屋の老爺である。そうした中を、銀杏返しや丸髷の女たちが、涼しげな浴衣掛けで、下駄を突っかけ、冷やかし半分に店先をのぞいては、また先先へと歩いていく。子供たちの賑やかな声がして、ひとりでに心が浮かれる。

 しかし、ひとたび冬ともなれば、隅田の川風は肌を刺す。それでも、陽が出て晴れてさえいれば、露店に客もあり、いくらかの売り上げの中から、屋台の熱いうどんをすすって一息つくこともできたが、困るのは雨天の日である。降り込められた日には、狭い部屋の赤茶けた畳の上で無心に眠る子供たちの寝顔を見ながら、喜三郎は深いため息をつくばかりであった。