橋場

 教祖が生まれた橋場の町は、浅草の東の外れにある。その昔、石浜庄と呼ばれ、戦略上の要地として、事あるたびに戦の場となった土地である。かつて源頼朝は兵をあげて鎌倉にはいる途上、この川に舟を並べて浮橋を設けたが、その場所が現在の橋場であったといわれる。このように、浮橋や細い木橋が、流され失われしながらも、何度か構築され、架けられてきたのが橋場で、その由来が地名となって今に残っている所なのである。

 明治の初めごろ、ここには「橋場の渡し舟」が通っており、川辺に生い茂る葦を分けながら、その渡し舟がのどかに川面を往来し、貴重な交通機関の役を果たしていた。

 当時、あたりはまだ大名の下屋敷の桟橋が並び、その間に一般庶民の荷揚場が点在していた。また、時の重臣・三条実美の別荘「対鴎荘」は、今の白鬚橋の近くにあって、その名が示すように、川面には都鳥(「ゆりかもめ」の雅名)の遊ぶ姿が見えた。明治一〇年(一八七七年)には、西南の役が風雲急を告げるさなか、病床の実美を見舞って、明治天皇がへ行幸している。

 このように川沿いの一等地や街道筋には、富裕な人々の邸宅や立派な構えの商店も見られたが、一歩細い路地に踏み入れば、そこには貧しい家々が多く、その日その日を倹しく<つましく>送る庶民の町であった。両側からせり出した軒先には洗濯物がぶら下がり、共同井戸のまわりでは赤児を背負った女たちが、どこそこの家が夜逃げしただの、米の値が上がって何か質に入れなければやっていけないなどと、世間話に花を咲かせながら、粗末な着物の裾をはしょって忙しく洗濯をしている風景があった。そうした土地柄なのである。

 しかし、東京の外れにある貧しい街にも、おりに触れて心和む風情があった。春先ともなれば、水ぬるむ隅田川を白魚がさかのばり、小さな家々を囲むように広がる蓮田には、夏ごとに麗しい花が開き、涼風にそよいだ。

 教祖が生をうけた橋場は、このような貧富の間に息付いている町であった。