祖父母

 喜左衛門は、男子の跡継ぎに恵まれなかったので、娘の家寿〈やす〉(教祖の祖母)に婿を迎えたのである。その婿という人は、旅の行きずりに、ふと武蔵屋へ立ち寄った人物であったが、一目ぼれで喜左衛門は、その人物が気に入り、婿として迎えるにいたったとしか伝えられていない。その人物の名前は古い戸籍には佐七とあるが、寺にある過去帳にはなぜか巳之助となっている。ところが、見込みに反し、さんざん道楽を重ねたので、このままでは身代が危うくなるという心配から、ついに勘当されてしまった。以来杳〈よう〉としてその行方がわからない。

 しかし、婿が家を出た時には、妻の家寿はすでに身籠〈みごも〉っていた。やがて月満ちて生まれたのが教祖の父・喜三郎であった。時に嘉永五年(一八五二年)のことである。

 曽祖父・喜左衛門は、この後、慶応三年(一八六七年)、天皇親政を旗印にした倒幕の嵐が吹き荒れるさなかに永〈なが〉の眠りについた。葬儀は盛大に行なわれ、生前の徳を偲んで自宅から菩提寺まで二〇町(約二・四キロメートル)の間を、近在の人々が柩のあとに付き従ったと今に伝えられている。

 岡田家では、昔から書左衛門と喜三郎を交互に名乗ることが習わしになっていた。教祖の父も、幼名は徳太郎であったが、曽祖父・書左衛門の死去のあと、家督を相続すると同時に喜三郎を称した。時に一五の秋であった。