布教の前線で
總斎は戦中、戦後にわたって自らが布教の最前線で働いていた。そしてこの間さまざまな奇蹟を現し続け、奇蹟を現す“力”と人を動かす“力”の相乗作用が、各地での爆発的な入信者数につながったのである。奇蹟を現す力のみならず、その …
埼玉県越谷での浄霊
中根孝次によると、初めて總斎が埼玉県越谷市での「渋井式指圧浄化療法」の講習に出向いたのは、終戦後間もない昭和二十年八月二十日のことであった。講習所は越谷駅から八キロの道のりで、乗り物の便がまったくない当時、リヤカーで總 …
總斎の布教魂に学ぶ
新宿時代の總斎は、だいたい夜七時頃まで浄霊を求める人たちのために多忙をきわめていたが、さらにそのあと水戸、宇都宮、横須賀など東京近郊に出張することが頻繁にあった。そして、翌朝帰宅するのだが、帰れば帰ったで浄霊を求めるた …
出会い
二、三日ほど前から、東京は天気がよいぶん冷え込みが厳しく、昼を過ぎても気温が上がらなかった。その日の朝は、いくらか冷え込みは緩んだのだが、午後からどんよりとした雲がかかっていたことを彼は憶えている。再度明主様のお屋敷に …
母の浄化が契機に
渋井總斎の母せいは腰痛に悩んでいたが、あちこちの病院、治療所を訪ねても一向によくならず、友人の紹介で「岡田式指圧療法」中野支部の中島一斎の治療を受けていた。どこへ行っても治癒せず、半ばあきらめていたのだが、「岡田式指圧 …
總斎の修行
總斎自身もこれまでに多くの霊的修行を積み重ねてきていた。だからこそ、明主様の偉大なご神格をたちどころに見抜くことができたのである。 總斎は宝山荘に明主様を訪ねる以前、信仰を求めて解脱会に入会していた。解脱会とは、昭和 …
入信
その後、總斎は約一ヵ月ほど宝山荘を訪れることはなかった。この間、總斎が何を考え、何をしていたのか伝えられてはいない。しかし、總斎は残された人生のすべてをこの道に、そして明主様に捧げ尽くすことを決めていた。たぶん、總斎は …
「大日本観音合」発会
昭和九年(一九三四年)九月一五日を期して、新たな道を歩み始めた教祖は、神の経綸により、世の中に向かって神示の教えを獅子吼(ひるむことなく正道を堂々と述べ伝えること)するべき時が目前に迫っていることを感得した。そして、ま …
獅子吼
東方の光といへど観音の救世の光の事にあるらむ 東方の光はいよよ拡ごりてやがて照らさん西の涯しに 主の神の真の救ひは弥果てに出づる東方の光なりけり 救世救人の門出の日、昭和一〇年(一九三五年)の元旦、「大日本観音会」 …
観世音菩薩と光の玉
教祖が観世音菩薩を祭神として、大日本観音会の名のもとに立教を宣言するにいたった背後には、観世音菩薩との深い因縁に目覚めていく、ひたむきな歩みがあった。昭和元年(一九二六年)以来、観世音菩薩の霊身は、常に教祖に付き添い、 …