埼玉県越谷での浄霊

 中根孝次によると、初めて總斎が埼玉県越谷市での「渋井式指圧浄化療法」の講習に出向いたのは、終戦後間もない昭和二十年八月二十日のことであった。講習所は越谷駅から八キロの道のりで、乗り物の便がまったくない当時、リヤカーで總斎を迎えに出たという。

 その講習会の田は、連日の日照りで誰しも一雨欲しい時であったが、なんと總斎は講習を始める前に、
「みなさん、たいへんに雨が欲しいようですので、私が雨を降らせますから楽しみにしていてください」
 と言いながら浄霊講習を始めたではないか。初めて總斎に会った者ほみな怪訝な顔を見合わせていた。ところが三十分経つか経たぬうちに、急に辺りが薄暗くなり、風も少し出てきて、雨模様になったかと思うと急に雨が降り出した。そしてすぐに百メートルほど離れた電柱が見えなくなるほど、たらを一度にひっくり返したような大雨となった。講習会に集まった者たちは、これでは家に帰れるだろうかと心配するほどであった。 しかし三十分ほどで小雨となり、やがて止んでしまった。この間にも總斎はただニコニコしながら講習を続け、長年胃下垂で悩んでいた患者をたった一回の浄霊で治してしまった。そして總斎は、「先程の雨はお浄めといってね、龍神が神様に挨拶に出られたんですよ」
 と説明していたが、みなは訳が分からず、ただその不思議な出来事に呆気にとられていたのである。その時に浄霊を受けに来た人びとは、長年の持病の神経痛、喘息、頭痛、偏頭痛、めまい、イライラ、胃腸病、その他で苦しんでいた者が多かったが、ほとんど一回の浄霊で治ってしまった。この越谷では、
“これはとてつもない神様がこの世に現れたものだ”
と、これ以後大評判となったという。

 總斎の二度日の越谷地方講習の時である。總斎が講習を終えて越谷駅から電車に乗った頃、急に暴風雨が襲った。隣村との境界付近には普段から薄暗く、早く日の暮れるような所があったが、この暴風でその場所に生えていた松の大木が折れてしまった。そしてちょうどその頃、ある十一歳の少女の浄化がたいへん激しくなってきたという。夜中になると腹の底から物凄いうなり声をあげ、蛇が這うようにして畳から土間に降りて外へ出て行こうとする。時にはあばれるので、大の男が二、三人で押きえつけようとしても押さえ切れない。そこで永野みつ子に依頼して浄霊をしてもらったところ、やがて少女は床に戻りぐっすりと寝込んだ。このようなことが何回かあったというのだ。

 その後、永野が總斎にこの一件を報告したところ、總斎は、
「その子の浄化は龍神様のようだが、もしそれが副守護神の龍神様なら、その子から抜けると同時に死んでしまうだろう。しかし、松の木にかかっていた龍神が憑依していたのなら助かるかもしれない」
 と解説した。やがて、少女の浄化は恢復し元気になった。実は、その付近は中川と荒川の合流する地点で魚釣りする人が毎年一、二人は水死する所だったのだが、それ以来そうした事故がぴったりやんでしまった。總斎はその結果を聞いて、
「恐らく松の木に憑依していた龍神が昇天したのだろう。これからは大発展のお許しがいただけるよ」
 と説明したというが、まったくその道り越谷の教勢は大発展したのである。

 その頃の總斎は布教開拓の神様であり、地方の邪神と闘って歩いた神様、素戔鳴尊<すさのおのみこと>の生まれ変わりだと噂されたと伝えられている。前述のことから考えてもなるほどと頷かれよう。總斎は地方で布教を新しく始める幹部に、必ず明主様にご奉告すること、今まで住んでいたところの氏神にお礼参拝をすること、また新しい土地では一番格の高い氏神様に“どうか天国建設に相応しい場所をお与えください”とお願いするようにと、この三点の注意を与えていたという。
 
 總斎の布教の実践は、決して単なる病気治しの浄霊ではなかった。その人間に合う浄霊、その土地その土地に合う浄霊を行なっていたのである。だからこそこれだけの布教活動ができたのだといえよう。これをやり遂げた不世出の人が總斎なのである。