布教の前線で

 總斎は戦中、戦後にわたって自らが布教の最前線で働いていた。そしてこの間さまざまな奇蹟を現し続け、奇蹟を現す“力”と人を動かす“力”の相乗作用が、各地での爆発的な入信者数につながったのである。奇蹟を現す力のみならず、その力が多くの人びとの魂を揺り動かし、行動に駆り立てることは、余人に代え難い超人的な業だった。總斎の布教の実際をみれば、そのことは容易に理解できるのではないだろうか。
 
 この話は小林晴秀によるが、初めて總斎が福井県大野市に赴いたのは、昭和十九年十二月十九日だった。
当地ではその頃、
「どんな病気でも手を振っただけで治してしまわれる、偉い偉い先生が東京から来られるそうな」
 という噂が広がっていたのである。当時は北陸というと交通環境も不便で、ましてや戦時中の物資不足の世相では、東京というだけでも一種違った進んだ文化を感じる時代であった。總斎を迎える当地の信徒の間では期待がふくらんでいた。

 しかし最初、總斎の講話を聴いている人たちほとんどが半信半疑であった。なかには疑いの目を向ける者も多くいた。どの場所の講習会でもそうだが、これは当たり前のことで、その話の内容からしてとても常識では理解できるものではない。

 この大野市の講習会では、たまたま脳溢血で半身不随の人が出席していたが、總斎はごく自然に病人に近づいて浄霊を始めた。この人は浄霊を受けるとわずか二、三十分で、今まで不自由だった手足が元どおりに動き出し、しかもそれまで絞るようにしか出せなかった声も出るようになった。その喜びようといったら大変なもので、まわりでこの一連の出来事を目の当たりにした者たちは、この世にこんな事がはたしてあるものかと信じられず、ただただ唖然としていたのである。しかし、この病人は同じ地域の人で、十年以上も不自由な生活をしていることをみな知っていたから信じざるを得なかった。

 總斎は、そこに集まった者たちの緊張の糸をほぐすように、
「とにかく疑うということは結構ですよ。自分で実際にやってみなければわかりません。誰にでもできるのです」 
 と話したが、それまで總斎の話をじっと拝聴していた者のうち二十一名がその場でご神縁を結んだという。即ち大野市から参加していた九名とその他から来ていた十二名である。

 その時總斎は、
「これは神様とか仏様とかではなく、明主様という大先生とのご縁をいただかれた記念品です。その記念品をいただいて浄霊する人には、人間的には想像もできない奇蹟を特別に賜るのです。しっかりと浄霊を多くの人に取り次いでください。一人でも多く浄霊した人にはそれだけ大きな浄霊力が許されます」 
 という話をして、励ました。当時、医療行為に対して、官憲の検閲を受けることが多く、「おひかり」をお渡しする時に記念品と称していた。

 何も判らない者たちは、人を救うということは大変なことだと思いつつも、一方で、
「よし、やってみよう」
 という気持ちを抱くようになり、その場には希望と勇気が満ちあふれた。大野市でその時入信した者たちは、浄霊をするのも初めてならば受けるのも初めてであったが、不思議にも浄霊の成果が表れ、奇蹟による喜びがそれぞれの地域を駆けめぐったと伝えられる。

 翌々年の、昭和二十一年四月、大野市で第二回の講習会を開き、再び總斎を迎えて、新たに三十六名がご神縁を賜った。この二回の講習で入信した五十七名がよき神柱として活躍したため、大野市を中心に福井県の教線は順調に伸びていった。なによりも總斎が来県するたびにその教勢は爆発的に大きく広がっていったのである。

 昭和二十年八月十五日は、岐阜県美濃町における講習会であった。終戦の当日も總斎は講習会を開き話をしたのである。戦後この岐阜で布教を続けていた川端廣重の話によれば、この時川端は岐阜駅へ切符の入手に行っていたが、新聞記者から敗戦を聞き、急いで美濃町へ帰り總斎に知らせなければとあせった。敗戦を知らない總斎が、講習できっと“日本は勝つ”という話をするに違いないと思ったからだという。しかし總斎は川端の思惑と違って、まるで今田のことをあらかじめ判っていたかのように、戦争のことについてはほんの少し触れたのみであった。あらかじめ、終戦については明主様から主だった弟子に事前に何らかのご説明があった。

 戦時中であるにもかかわらず、この講習会も相変わらず盛況であった。当時、岐阜県の布教は美濃町が中心であったが、終戦直後、總斎は県内各地、特に伊戸島、政田、大垣、赤坂、垂井、州原に積極的に布教したのである。

 岐阜に関していえば、昭和二十三、四年頃は高山市周辺が中心で、ここにも總斎は出向いた。当時は名古屋を中心に布教していた渡辺が、昭和二十三年一宮市神山町に教会を設立し、中京地区発展の原動力となり、多数の教会が誕生していった。岐阜では昭和二十年には七名の入信お導きしかなかったものが、昭和二十一年一月には四十名、二月に百有余名入信、以後月毎に発展の一途を辿った。川端は昭和二十三年に専信分教会を大垣市内に設立、教会長を拝命した。

 總斎を岐阜県に迎えた回数は、指折り数え切れないほどであったが、總斎も多忙のため地方講習は容易ではなくなってきた。終戦後の地方講習は特に中京、関西方面が多くなってきたが、總斎はこれら地方の布教の最前線に立つ指導者たちを育て、その代わり、彼らを陰になり日向となって支援する方針をとったのである。なお、昭和二十五年五月には専信、百光、聖光、恵光の四つの分教会が、新しく信徒数千五百名の専信教会として大垣市静里町において発足している。