母の浄化が契機に

 渋井總斎の母せいは腰痛に悩んでいたが、あちこちの病院、治療所を訪ねても一向によくならず、友人の紹介で「岡田式指圧療法」中野支部の中島一斎の治療を受けていた。どこへ行っても治癒せず、半ばあきらめていたのだが、「岡田式指圧療法」の効果は目を見張るものがあった。總斎は母の腰痛がこんなにもよくなったことに最初驚いたのだが、もともとが学究肌であった總斎は、もしこの療法で本当に腰痛が治ったのなら、その治療で治る理由を知りたいと考えるようになっていた。

 そして總斎由身が、カリエスを患っていた姪の木村用子(本名マサエ、大正三年東京生まれ)を伴い、中野支部にカリエスが治るかどうか話を聞こうと出かけたのであった。実のところ、總斎も先頃まで中耳炎を患い、現代医療に疑問を持ってもいた。總斎はどのような原因で罹病し、また治るのかについて大いに関心を持っていたのである。

 そこで、紹介者の勧めもあって直接明主様の治療を受けるために宝山荘を訪ねることになった。また、同じ頃、總斎の長兄・茂十郎も宝山荘に通っていた。こうして今日の世界救世教の発展の礎を築いた、明主様と渋井總斎の宝山荘における歴史的な出会いが実現したのである。

 当時の受付係は井上茂登吉、“下浄霊”は木原義彦と川上吉子の二人で、“下浄霊”の終わった人は、長谷川なみに呼ばれて奥の部屋に案内され、明主様の直接浄霊を受けるようになっていたという。

 明主様と渋井總三郎の出会いは、井上茂登吉が間近に見ていて、その経緯を記している。
 
 受付にいた私の間に「淀橋区角筈一の七三八 渋井總三郎 洋服商 五十二歳」と答えられたが、一見洋服屋さんとはみえぬ落着き払った風格があり、精悍な闘志の内包さえ感じられ、然も四十代としか思えぬ若若しさである。“これは変わった人だな”と思ったとたんに「こちらでは結核は伝染しないと言われるようだが、患者の近親者が次々と結核に罹る事実はいかなる訳か」とか、「指圧で治る理由は」とかいうような事柄であったと思うが、種々質問されては納得のいくまで追求するというふうであった。その簡潔で急所を衝き、間髪を入れぬ舌鋒の鋭さ、柔らかいが迫力のある質問ぶりには私もいささかタジタジとなって危うく切り抜けたが、とにかく、今晩大先生(明主様)の御講義があるからすべての疑念は、それを伺う事によって解決するからと言って逃げてしまった。当時は特別講習というのがあって、受講修了者を集めて明主様から病理や臨床等に関する御講義を下さったのであるが、ちょうどその夜、特別講習があり信徒も交えて十人くらい集まった。そして渋井總三郎も特にお許しを戴いてその会に列したのである。明主様は御講義を終えられ、ご入浴遊ばされたが、直ちに浴場へ私をお呼びになり、「あの○○の隣りに座っていた、初めてみる肥った男はどういう人か」とお質ねになったのである。私としても氏名、職業、質問の様子くらいの事しかご返事のしようもなかったが、明主様が、
「あの人は非常に頭のいい人だ。将来きっと役に立つよ」 
 と仰せられたのである。が、私は“そうかなア”と思ってお言葉がピンと来なかったが、後年になってそのご慧眼の素晴らしさに驚嘆した次第である……。
 
 実は、總斎はこの時は明主棟がどのような方であるかを確かめるために宝山荘を訪れたというのだが、その日が明主様から直接お話をうかがうことができる特別講習日であったというのは、偶然にせよ、總斎にとってはたいへん幸運なことであった。

 とくに總斎の心を強くとらえたことは、教祖のご神格と、その唱えた「夜昼転換」のみ教えであったという。夜昼転換とは、いうまでもなく、昭和六年、明主様が千葉県の鋸山で授けられた天啓である。(前略)霊界と現界との関係については前項に説いたごとく、現界のあらゆる事象は霊界の移写であるとして、ここに霊界においては、最近に至って一大転換の起こりつつあることで、それを知ることによってのみすべては判明するのである。(後略)   

(『天国の礎』宗教 上)

 この明主様のみ教えは、教団創立時の根本教理である。總斎はこの根本のみ教えに強く感動して明主様に帰依することになる。それはまさに、これまでの總斎が夜の世界の考え方で生きてきたことから、明主様と出会って昼の世界の真理に従って生きることへ転換することを意味していた。

 しかし、明主様に惚れ込んだ動機はこれだけではなかった。それは總斎自身の鋭い直観といってよい。また、總斎がまれにみる霊的直観を持っていたことの証左であった。

 のちに、總斎は近しい弟子に明主様との最初の出会いについて次のように語っている。
「私が初めて宝山荘で明主様にお会いした時、観音様と大先生が一つになられるのを拝しました。その瞬間『長い間待っていたのはこの方だったんだ。よし、この方のためにすべてを捧げる決意をしよう』そう思いました。それで、もう全財産なげうって御用に取り組んだのです」