正義感

 若いころから晩年にいたるまで、教祖の一生を貫いて変わらなかったその性格はどのようなものであったか、また、その根底となっている信念はなんであったかを考えることは、教祖を理解するうえにきわめて大切である。また、教祖その人を全体としてとらえるうえの近道でもあろう。

 教祖の、とらわれることのない無償の愛の発露、時代を先取りする新しいもの、合理的なものを絶えず追求してやまない進取の気性、これらはいずれも一生変わることのなかった性格であるが、さらに人並み外れた正義感の強さもまた、その生涯を一貫していた性格である。これについて、教祖はみずから、

「私は生まれつき人並外れて正義感が強い……。」

と述べている。

 この言葉は、その正義感の強さは生まれつきであって、生後の環境や教育などによって得たものではないということを意味している。しかも、生まれつきのこの性格は、何より自分に向かって、自分自身を厳しく律して不正を行なわないという自戒であるとともに、他人に対しては、その不正や悪徳を黙って見過ごすことを許さないものであったのである。

 岡田商店の旭ダイヤが大成功をおさめ、業界のトップに立つと、同業者の妬みやいやがらせもしだいに目立ってきた。そういうとき、どんな仕打ちを受けようとも、あくまで信念を曲げず、たとえ損得にかかわることがあろうと、そんなことはいっさい度外視して正義を貫くために戟ったのであった。そのため、たとえ、一時は不利なことがあろうと、いつしか形勢は逆転し、ついに先方は降参してしまうといった具合で、最終的には、最初の不利を取り返して、なお余りあるほどの利益をもたらすこととなったほどである。事実、つぎのようなことがあった。

 旭ダイヤの特許をとって、三越と特約を結び、大量の商品を取り引きしていた大正五年(一九一六年)ごろのことである。小間物・小売商組合が、二種類の商品のうち一種を自分の方にまわし、他の一種を三越に卸してくれという、大変に虫のよい要求をしてきたことがあった。それはすでに約束ずみの三越を踏みつけにすることになるので、もちろん応じるわけにはいかない。すると組合は力尽くで彼らの要求を通そうと、東京全市の小売商に呼びかけて岡田商店の製品の締め出しを図るという強硬手段に訴えた。その結果、岡田商店が大打撃を受けたことはもちろんである。しかし、圧力に屈することなくよくこれに耐え抜いた。その結果、二年ほどして、とうとう組合の方かち折れて釆て問題はおのずと解決したのである。

 また、ちょうどそのころ、今度は三越が取り引きの上で無理な要求をしてきた。そこで教祖は、躊躇うことなく取り引きの停止を申し入れた。驚いたのは三越の方であった。
 「今まで、たいていな無理を言っても、問屋の方で我慢するのが常になっていたが、今度の君のような気の強いことを言ってきた人は、かつてなかった。」と言うのである。しかし、道理は教祖の方にあるので、結局三越の方から折り合ってきて結着がついたのであった。

 正義や道理よりも、利益を第一義にすることの多い商人の世界にありながら、小売商組合を相手どり、あるいはまた、天下の三越を向こうにまわして、損害がわが身の上に及ぶことを万万承知のうえで、正義を貫いたのである。

 大正という時代はわずか一五年であったが、明治と昭和を結ぶ分岐点として多様な側面をもっている。

 その一つは、目覚ましい経済発展である。大正三年(一九一四年)に勃発した第一次世界大戦は、足かけ五年にわたって西欧の多くの国々を戦いに巻き込んだ。とりわけ戦場となったヨーロッパ諸国は、戦火によって多大な打撃を受けた。したがって物資の不足を補うために、戦火をまぬがれたアメリカや日本から大量の工業製品を買いつけたのである。その結果、日本の経済は高度の成長を遂げ、重化学工業(金属、機械工業、それに化学工業を加えたもの)が盛んになり、造船業や海運業を中心に好景気にわきにわいた。いわゆる〝成金″と称する金持ちが数多く生まれたのである。大正デモクラシーと呼ばれる、政治や文化にわたる広範な市民生活の繁栄は、このような国の発展に裏付けられたものであった。岡田商店の成長も、国全体の隆盛を抜きにしては考えることはできない。

 しかし、一時的な好景気による繁栄は社会のあちこちに歪みを生んだ。株価の急騰などによって一獲千金を夢みる投機熱が盛んとなり、にわか成金の輩出などから社会の風潮は退廃的、享楽的になっていった。そのうえ、好景気はきわめて不安定なものであったから、世界大戦が終わると、その反動が襲ってきて、株は暴落、破産、ストライキと不況が続くようになった。
しかもその中で、悪徳商人の独占的な買い占めなどによって、主食である米の値が異常に釣り上げられかのである。民衆の不満はやがて大正七年(一九一八年)八月の米騒動となって爆発した。これは国内三〇五か所で七〇万人にのぼる大暴動に発展していったのである。

 このような嵐の中にあって、政治家の不正や指導階級の悪徳行為、ことに軍閥や財閥の腐敗横暴が相次いで国民の前に露呈された。たとえば、大正三年(一九一四年)、ドイツのシーメンス社製の軍艦の購入をめぐり、取り扱い商社と海軍軍人が起こした贈収賄事件もその一例である。これはシーメンス事件と呼ばれ、高級将校が軍法会議により懲役刑を受けるという社会を揺がす大問題となった。

 当時の帝国議会において、この事件を追及、弾劾(罪状をあばく)したのは、毎日新聞社長の 島田三郎代議士や、「憲政〈けんせい〉の神様」とうたわれ、咢堂〈がくどう〉と号した尾崎行雄代議士たちであった。

 その結果、時の首相山本権兵衛の率いる内閣は、ついに退陣に追い込まれたのである。

 教祖は、このような政界、財界の腐敗を見聞きすると、持ち前の正義感が頭をもたげ、悪に対する憤激が強く起こってくるのであった。それだけに、そうした不正をつき、断固として社会 正義のために戦った島田、尾崎の両代議士には後になって惜しみなく讃辞を呈して、
 「今日の政界と来たら、そういう人は殆んどないといっていい。大部分の人は利口者で融通が利き、綱渡りや官界遊泳術の達人等が多く、政界の寂しさは誰も同じであろう。というように今日最も不足しているものは、千万人といえども吾征かんの硬骨漢である。」
と書いている。

 なお、この事件にさいし、主任検事として敏腕を揮った小原直は、この時から三〇余年を経た後、法難事件に遭遇した教祖の弁護士として活躍するのである。

 このころの教祖は、事業にもある程度成功していたし、自分自身でも何か社会に役立つことをしたい、少しでも社会悪を減少させたい、という気持ちがますます高まっていた。そのためには、一体何をすれば一番効果があるだろうかと、いろいろ思案を重ねていたのであった。

 当時、まだ無神論者であったためであろうか、共産主義者が弱者を助け、権力者をつき、働く者、正しい者の世界を造ろうとしていると聞き、大いに富を得た後は、ひとつ共産主義の運動を援助しようかと真剣に考えた時期もあった。そうした思案の未、心に決めたのが、新聞の発行である。

 当時はテレビはいうまでもなく、ラジオ放送さえ開始される以前のことである。人々はもっばら新聞によって世の中の出来事や、世論の動向を知るほかはなかった時代である。したがって、社会に占める新聞のもつ働きと役割は今日に比べて、比較にならぬほど大きかった。

 しかし、当時の新聞は、しばしば新聞社が発展的解消をしたうえで合併を行ない、しだいに大型化する傾向にあった。それとともに、報道の早さ、正確さが重視され、また一面、大衆に娯楽を与えるといった傾向が強まってきた。それだけに卓越した思想をもって社会に自社の信念を訴えるという働きに欠けるようになっていったのである。

 かつて黒岩涙香は、社会の不正を糾弾し、貧しい人、悩める人々の立場から、日本を憂え、日本の歩むべき道を説いたが、その涙香の萬朝報を愛読し、こうした新聞界の傾向を嘆かわしく思った教祖は、社会悪と戦い、社会悪を矯正するような新聞の経営を考えたのである。準備にあたって調べたところ、たとえ中規模の発行部数の新開であっても、一〇〇万円の資金を要することがわかった。そこでそれだけの金を一日も早く作ろうと決意したのである。