無償の愛

 岡田商店は、追風を帆の背いっばいに受けて、順調に船旅をする人生航路そのものであった。順風満帆とはよく言ったものである。商品は作るそばからどんどんさばけるし、資金繰りもうまくいっている。作ること、売ること、いっさい万事が順調である。自力で興した事業がごく短期間に大成功を収めたのであるから、教祖が自己の才能と手腕に満々たる自信をいだいたのも当然といえよう。そして、人間の幸、不幸は、すべて本人の努力と才能が決定するという信念はいよいよ確固たるものになっていった。とともに、若い時からの唯物、無神の考えも、ますます強くなっていったのであった。

 教祖は四〇歳くらいまで、神仏に手を合わせたことがなかった。自分が手を合わせないというだけではなく、他人の信仰している姿を見ると、そういう人が愚かに見えて仕方がなかった。神社の本体はといえば鏡か石か、紙に文字を書いたようなものである。それを人間が拝むなど、およそ意味がないと思っていたし、また、仏にしても、観音とか釈迦、阿弥陀などの姿を刻んだり、紙に描いたりしたものである。こんなものも人間の空想の産物であるから、なおのこと意味がない。いずれも偶像崇拝以外の何物でもないというのが教祖の持論であった。そのころ、教祖が共鳴したのはドイツの哲学者ルドルフ・クリストファ・オイケン(一八四六年~一九二六年・一九〇八年ノーベル文学賞受賞)の説であった。すなわち人間が偶像を作って拝むのは、人間には何かを礼拝しなければ満足できない本能があるからで、それは単なる自己満足にすぎない、というのがその説であった。したがって教祖は、法事で寺の本堂に坐ったりした時など、いつも居眠りをしていたのであった。

 このような無神思想はさらに発展して、古い寺院の多いイタリアなどは衰えており、これに反してアメリカのように、寺院の少ない国家は非常な発展をしている現実から考えて、神社仏閣は日本の発展の障害物であるとさえ考えるにいたったのである。

 しかし、教祖はそのころ、「救世軍」(イギリス人のウィリアム・ブースが一八六五年に始めたキリスト教の一派で、軍隊組織でもって伝道と社会事業を行なった。わが国には明治二八年・一八九五年に支部が置かれた)へ定期的に寄付をしていた。そのため、救世軍の牧師がたずねてきて、
 「救世軍へ寄付する方はたいていクリスチャンであるが、あなたはクリスチャンでもないのにどういう動機から寄付をされるのですか。」と質問したことがあったので、これに対し、

 「救世軍は出獄者を悔改めさせ、悪人を善人にする。従って救世軍がなかったとしたら、出獄者の誰かが私の家へ盗みに入ったかも知れない。然るにその災難を救世軍が未然に防いでくれたとしたら、それに感謝し、その事業を授けるべきが至当ではないか。」
と理由をはっきり説明したのであった。

 このように無神論のコチコチではあったが、人のためになる善行はしたいという気持ちは人一倍であった。 
 
この時代、教祖の人に尽くし、世の為になろうとする大きな愛情を伝えるエピソードは数多い。

 身近な例からあげると、その一つは妻・タカが結核を患った時に示した愛情である。明治四一年(一九〇八年)、結婚してから一年ばかりたったころの話である。さっそく医師に見せたところ、
 「この病気には薬がないから、まず空気の良いところへ転地して、気長に療養するよりほかに方法はない。」
という医者の診断であった。当時、結核は不治の病とされ、遺伝すると考えられていたから、家族や親戚は本人のために家に返すことを勧めた。教祖も一時その気になったが、どうしても納得がいかなかった。どんなことがあっても助けあって添いとげるのが夫婦の道である。教祖には自分の結核を克服した自信があった。それに正しい道を歩む人間に結核が伝染するはずはないという確信のようなものが湧いてくる。それを聞いた医師や家族の方が、かえってあきれるほどの独自の信念であった。タカの結核は誰にも感染することなく、菜食療法によって三、四か月のうちにみごとに完治したのである。

 また、これは一時教祖の家で働いていた女性の話である。一六、七歳の娘であったが、病気になったので千葉県の実家へ帰した。ところがしばらくして不意にたずねてきた。見ると顔面蒼白である。尋ねると、帰ってから後しだいに病状が悪化して、ついに重症の結核と診断されてしまったというのである。ところが非常に貧しい家庭であるので、養生をするどころではない。邪魔者扱いをされて、「働きに出ろ。」と言われて出てきたという。一部始終を涙ながらに語る娘の様子を見ているうちに、教祖は心を動かされ、

 「そんな身体で働くなどはとんでもない話だ。すぐ実家へ帰りなさい。その代わり食扶持〈くいぶち〉と医療費を、お前の生きている間は、必ず送るから。」
と約束をした。娘は非常に喜んで郷里へ帰って行った。教祖はそれから毎月一五円ずつ娘のもとへ仕送りを続けたのである。

 ところがそれを聞いた親戚や知人は、腑に落ちないといった口調で、 「その娘の肺病が治る見込みがあるならいいが、あれでは死ぬに決まっている。死ぬに決まっている者を授けてやったところで、つまらないじゃないか。治ってから働いて恩返しができるならいいが、そうでないとしたら、無駄な金を使うだけで、つまらないじゃないか。早くよした方が利口だよ。」
と忠告するのであった。しかし、初めから損得を度外視してかかっている教祖である。

 「私は恩を着せて代償をもらう気はいささかもない。人を世話して恩返しを期待するなどは一種の取り引きで、まるで恩を売るようなものだ。だから、そんなものは慈悲でもなんでもない。善人らしく見せる一種の功利である。ただ私は、あんまりかわいそうで見ていられないからそうしたまでで、つまり、自然なんだ。私はそれで満足しているんだから、いいじゃないか。大きなお世話だ。なるほど、あんた方から見れば馬鹿と思うだろうが、馬鹿でもなんでも結構なんだよ。」
この答えを聞いて、忠告をした者たちは呆れて黙ってしまうのであった。

 こういう話もある。ある日、外出のおり、いつものように人力車におさまったものの、走り出すやすぐに、教祖は車夫がひどく新米であることに気付いた。

 人力車は二輪の車で、それ自身で安定することがないから、車夫は梶棒をしっかり握って腰を入れ、平均をとりながら走らなければならない。上手に走るには熟練を要する。ところが、この車夫はふらふらしながら引いて行く。

 教祖は車の上から、車夫の背中へ向かって、
 「君はまだ新米だね。」
と声をかけた。すると車夫は車を引きながら、
 「ええ、始めてまだ間がないんです。じつは私は学生でして、車引きなどしたくないのですが、なんとか学校を卒業するまで頑張りたいと、こうして車を借りてやっているんです。」
と答えた。そこで、
 「一体どこに住んでいるんだね。一度家へたずねて来たまえ。力になりたいから。」
と言って、自宅の所番地を教えてやった。若い車夫は感激し、その後しばらくしてたずねてきた。教祖は、車夫の身の上話を聞いて大変同情し、卒業までの学資を送る約束をした。苦学生の喜びは大変なもので、あまりのことに椅子から立ちあがり、絨緞にひれ伏してしまった。彼はその後立派に卒業してから巡査になったというが、名前など詳しいことはわかっていない。

 今日、当時の明細な家計簿が残っており、大正八年(一九一九年)の暮れから同九年(一九二〇年)にいたる記録の中に苦学生に関する項目が三度出てくる。一つは大正八年(一九一九年)の暮れ、「臨時、苦学生へ一〇〇円」、つぎは大正九年(一九二〇年)の三月に「三〇円」、同年五月に「三〇円」が記録されている。

 当時の一〇〇円は今日の二、三〇万円にあたるし、二か月に一度三〇円の支給は、月あたりにすると一五円になるが、それでも今日の数万円に相当する。幼い時代から貧しさに苦しみ、そのみじめさを知りつくした教祖は、ひたむきな努力と恵まれた才覚によってひとかどの資産家に成長してからも、けっして昔の心を忘れることはなかった。苦学生の身の上話を聞いて、それを人ごととして捨てておくことができなかったのである。