キーワード:「供養」

霊界の構成

 まず針の山は読んで字のごとく、無数の針の上を歩くのであるから、その痛さは非常なものであろう。血の池地獄は妊娠や出産が原因で死んだ霊が必ず一度は行く所であって、これは多くの霊から聞いた話であるが、文字通り一面の血の池で首まで浸っており、血腥い<ちなまぐさい>事甚だしく、その池にはおびただしい蛆虫<うじむし>様のものが居てそれが始終顔へ這い上ってくるので、その無気味さは堪らないそうで、始終虫を手で払い落しており、その様な苦痛が普通三十年位続くのである。蜂室地獄はこれも霊から聞いた話であるが、ある芸者の死霊が某美容院の弟子に憑依し語った所によると、人間一人位入る箱の中に入れられ、無数の蜂が身体中所嫌わず刺すので名状すべからざる苦痛であるとの事であった。焦熱地獄は焼死したり、三原山のごとき噴火口へ飛込んだりした霊である。それについてこういう例があった。ある中年の男子、一種の火癲癇<てんかん>で、彼曰く就寝していると夜中に目が醒める。見ると数間先に炎々と火が燃えながら、段々近寄るとみるや発作状態となりその瞬間身体が火のごとく熱くなると共に無我に陥るのである。これは大震災の翌年から発病したとの事であるからもちろん震災で焼死した霊であろう。この意味によって今回の空襲による多数の焼死者の霊は、無論焦熱地獄に苦しんでいる訳であるから、遺族は供養を怠ってはならないのである。

 ここで右饌供の食物について知りおくべき事がある。それは霊といえども、食物を食わなければ腹が減る。そうして霊の食物とは、すべての食物の霊気を食するのである。ただし現世と違い、極めて少量で満腹するので、霊一人一日分の食糧は飯粒三つ位で足りるのである。したがって普通の家庭で饌供された食物といえどもかなり多数の霊人が食しても余りある位であるからその余分は餓鬼道の霊達に施与するので、その徳によって、その家の祖霊の向上が速かになるのである。この意味において祖霊へ対しては出来るだけ飲食など供えるべきで、万一祖霊へ対して供養を怠る時は、祖霊は飢餓に迫られ、止むを得ず盗み食いする結果、餓鬼道へ堕つるか又は犬猫のごとき獣類に憑依して食欲を充そうとする。それが為畜生道へ落ちるのである。すべて人霊が畜生へ憑依する時は、悪貨が良貨を駆逐するように、漸次人霊が溶け込み、獣霊の方へ同化してしまう。この人獣同化霊が再生した場合その獣となって生れるが、これは生来の獣霊とは異り人語を解する。よく馬、犬、猫、狐、狸、蛇等に人語を解するのがあるが、これ等は右のごとき人獣同化霊の再生である。この同化霊は獣類になってある程度の修行が済むと又人間に再生するのである。ここで注意すべきは蛇、猫等を殺し祟る事があるが、これは同化霊であるからで、同化霊でないものは祟らない。又旧家などに古くから青大将がいるが、これは祖先が蛇との同化霊となって子孫を守護しているので、これ等を殺す場合非常に立腹し戒告を与える。よく蛇を殺してから死人が出来たり家が没落するというような事はそれである。又右と同様古くから祀ってある稲荷などは、それを取潰したり祭典を怠る場合よく戒告を与えられるが、それに気付かないと家の没落までに至る事があるから大いに注意すべきである。

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龍神界

 そもそも龍神なるものはいかなる必要あって存在するかというに、皆それぞれの職責を分担的に管掌の神から命ぜられ、それによって不断の活動を続けているのである。就中<なかんずく>天文現象すなわち風雨雷霆<らいてい>等はそれぞれの龍神が、祓戸四柱の神の指揮に従い担掌するので、もちろん天地間の浄化作用が主である。その他一定地域の海洋湖沼河川や、小にしては池、井戸に至るまで、大中小それぞれの龍神が住み、守っているのである。したがって池沼井戸等を埋める場合その後不思議な災厄が次々起る事は人の識る所である。それは龍神の性質は非常に怒りやすく自己の住居を全滅せられた為の怒りであり、又人間に気を付かせ、代りの住居を得たいからでもある。ゆえに初めから小さくとも代りを与え木龍のごとく転移の手続をすればいいので、事情により甕<かめ>のごときものに水を入れても可いのである。元来龍神は霊となっても熱しやすく水がなくては居られないので、非常に水を欲しがるのである。人間の死後龍神に化するという事は既説の通りであるが、もちろん執着心によるので、これ等は霊界における修行によって再び人間に生れ替るのである。彼の菅原道真が死後、 生前自己を苦しめた藤原時平等の讒者<ざんしゃ>等に対し、 復讐の執着から火龍となり、雷火によって次々殺傷し、ついには紫宸殿<ししんでん>にまで落雷し、その災禍天皇にまで及ばんとしたので驚いて急遽神に祭る事となったので、それが今日の天満宮である。それ以来何事もなかったという事で、これ等は歴史上有名な話であり、現代科学では到底解釈し難いであろう。次に明治から大正へかけての話であるが、今の霞ケ関の大蔵省の邸内にかの平将門の墓があった。それに気の付かなかった為か、大蔵省関係者に不思議な災厄が次々起るので、種々調査の結果、将門の霊の為ではないかという事になり、盛大なる祭典を行った所、それ以来何事もなくなったという話であるが、これ等も将門の霊が龍神となったものであろう。そうして龍神に限らずあらゆる霊は祭典や供養を非常に欲するものである。何となればそれによって霊界においての地位が向上するからである。

 昔から龍神の修行は海に千年、山に千年、里に千年という事になっている。これ等も相当根拠はあるようである。しかし龍神の修行は、関係者の供養や善行等によって期間は短縮されるのである。そうして龍神の修行が済むと昇天するが、その場合雲を呼び暴風を起し、いわゆる龍巻によって海水を随分高く上げ、天に昇るのであるが、これを見た人は世間に数多くある。それについて私は私の一弟子から聞いた話であるが、それはある時松の木に蛇が絡んでいる。じっと見ていると蛇は段々木の頂上に昇り、ついに木から離れて空中へ舞上った--と見る間にずんずん上昇し、ついに見えなくなったというのである。これは霊ではなく実物であるから面白いと思うと共に、有り得べからざる話であり、又あり得べき話でもある。龍神が再生した人間を私は数知れず常に見るのであるが、いずれも身体に特徴を有っている。太股、横腹、腰等に鱗の形が表われており、鱗も人により大中小種々あり、顕出状態も鮮明なるもの、朦朧たるもの、赤きあり、黒きあり、千差万別である。又面貌によっても分かるのである。龍神型としては顴骨<けんこつ>高く、額部は角型で、顳蹂部に青筋の隆起せるものがあり、眼は窪んだものが多く、顎も角張っており、特徴としてはよく水を飲みたがる。性質は気位が高く、人に屈する事を嫌うが、覇気に富むから割合出世する者が多い。龍系型を熟視すれば、龍という感じがよく表われているから、何人も注意すれば発見する事は容易である。又女性にあっては龍神の再生を龍女といい、多くは結婚を嫌い、独身者で満足する。又龍女は結婚の話などがまとまろうとする場合、相手の男子が死ぬとか、本人が病気に罹るというように、故障が起りやすい。これを無理に結婚させると、死別生別その他の事情によって破綻を生ずる事が多い。特に龍女は嫉妬心や猜疑心が強く、夫婦生活の幸福は得難いのである。したがって龍女系女性は世の為人の為善徳を積むか、又は正しい信仰に入る等によって、ある程度の浄化をさるれば結婚生活も遂げらるるのである。龍女の浄化とは龍神の霊が人間化する事である。普通龍女は一旦この世を去り、人間として祀られ、再生する事によって普通の人間となるのである。又龍女は眼澄み肌目細やかにして美人型が多いのである。

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肺結核

 先年私の妻は突然発熱、咳嗽、血痰等の肺患三期程度の症状を起した。早速私は治療したがすこぶる効果が薄い。二、三日経ても症状は一進一退である。そこでこれは霊関係ではないかと惟った<おもった>ので、憑依霊の有無を査べてみた所、果せるかなそうであった。その憑依霊というのは一年ほど前死んだ、私が扱った鈴木某という青年の結核患者であるが、その青年は父親と二人暮しで、長い間病気の為財物を費い果し赤貧洗うがごとくであったから、死後の追善供養などほとんど行わなかった。したがって霊は霊界において孤独不遇である為、私によって改めて祀ってもらいたい希望で、私の妻に憑依したという事が分った。これは妻の口を通じて途切れとぎれに語ったのである。もちろん表情も言語も鈴木に間違いはない。私は「それでは明晩祀ってやるから、この肉体から速かに離脱せよ」と言った所、彼は喜んで厚く礼を言い離脱するや妻はケロリとなし、なんら平常と異らない状態となったので、私もあまりはっきりした現象に驚いたのである。右の霊は今でも私の家に祀ってある。

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狸霊と髑髏

 「どんなお詫びでもして供養するから、その呪いを解いてほしい」両夫人も審神者も一生懸命に三十分ばかり交渉してようよう霊を納得させたそうです。

 その以後の事は聞き漏しましたが、一週間の供養が済むと間もなく、安らかにS氏は息を引とられました。

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宗教篇 霊的病気(結核と憑霊)

 今から二十数年前、私がまだ修行時代の頃、私の妻が風邪を引いたところ、間もなく激しいせきとともに引っきりなしの吐痰である。時々血痰も混るので、どうみても結核症状である。私も普通の結核としても、こう急に起るはずはない、何か訳があるのだと思って、霊査法を行った。この霊査法というのは、後に詳しくかくが、それでわかった事は、果して約一年程前、二十幾歳の青年で、結核三期という重症なのを治療してやった事があった。たしか一、二週間位で、とうとう死んでしまった。その霊が憑った事がよく分ったので、霊の要求をきいてみると、生前一人の父親に世話になっていたのだが、非常に貧乏なので、自分が死んでからも、碌々供養もしてくれず、未だに祀られていないので居所がなく、宿無しの為、辛くて仕方がないから、どうか祀ってもらいたいというので、私も快く承諾し「今夜は遅いから、明晩祀ってやる。しかし君がこの肉体に憑いていると、肉体が苦しいから、今私が祝詞を奏げてやる、それが済んだら、直ぐ離れなさい」と言うと彼も承知して、祝詞が済むや離れたので、妻はケロリとして平常通りになってしまった。これなどは余りハッキリしているので、私も驚いた事がある。

文明の創造(未発表)結核

龍神と病気との関係

 言うまでもなく、この家の祖先の一人に、死んで霊界へ往ってから、いずれかの執着によって龍神に墜ちたものがある。ところが長い間救われないと諦めていたのが、たまたま本教の出現が霊界に知れたので、大いに喜び、ぜひ救われたい為に、子供の身体を使ったり、実家の母親に夢を見せたりして、目的を達しようとしたのである。又以前、義姉の子供が死んだのも、気を付かせようとしたのは言うまでもない。そうして川岸に供養に行った時、水が盛り上ったのは、長い間食い物がなく飢えていたので、遮二無二それを取ろうとしたのである。又背中の子供がグッタリしたのは龍神が憑った為であるが、その目的は自分も浄霊して貰いたいからである。これによってみても病気は固より、種々な災いも霊界に大関係のある事を知るであろう。〔以下略〕

S26栄光

天国と地獄

 餓鬼道は、その名のごく飢餓状態で、常に食欲を満たそうとし焦躁している。それ故露店<ろてん>や店先に並んでいる食物の霊を食おうとするが、これは盗食<ぬすみぐ>いになり一種の罪を犯す事になるので、止むなく人間に憑依したり、犬猫等に憑依し食欲を満たそうとする。よく病人で驚くほど食欲の旺盛なのがあるが、これは右に述べたごとき餓鬼の霊が憑依したのである。又犬猫に憑依した霊は漸次畜生道に堕ちる。その場合人間の霊の方が段々融け込んでゆく。丁度良貨が悪貨に駆逐されるように、遂に畜生の霊と同化してしまうのである。この意味において、昔から川施餓鬼<かわせがき>などを行うが、これは水死霊を供養する為で、水死霊は無縁が多いから供養者がなく、餓鬼道へ堕ちるので、餓鬼霊に食物を与え有難い経文を聞かせるので、大きな供養となるのである。

天国の福音書

一家の暮し

 浅草寺には、一年を通じて多くの参詣人が訪れる。新年の初詣は言うに及ばず、二月八日の針供養、七月の鬼灯市(ほおずきいち)といった、四季折々を彩る風物によって、参拝に訪れる人々は季節、季節の到来を知るのであった。

乾坤山・日本寺

 「必ず自分の思ふ人に似た首がある。誰にも知られないやうにその首を取って来て密に供養すると、願事叶うといふ……。」と記されているように、首取りが流行したからであった。そのため“日本寺の首なし羅漢”というので有名になった。大正四年(一九一五年)に石仏全部を修理したものの、間もなくまた首取りが横行したという。

先祖供養の浄霊

 神様への礼節が先祖への供養ともなる。御用という明主様へのご奉仕と、神様への献上品が、先祖を救い、ひいては自分自身をも救っていくというのである。