天国的宗教と地獄的宗教
今日世界を風靡<ふうぴ>しているキリスト教の開祖、イエス・キリストにしてもそうであって、十字架上の露と消えた事蹟やパリサイ人共の迫害は有名な話であるが、日本においても大なり小なり、茨の道を潜らない宗教家はなかったと言ってもいい。只その中で釈尊と聖徳太子のみが例外であったのは、言うまでもなくその出身が皇太子であったからである。
キリストが受難に遭いながら「我れ世に勝てり」と言われたのもその意味であり、味わうべき聖言<せいげん>である。
故に既成宗教は、開祖の死後相当の年数を経てからようやく認められ、神と祀<まつ>られ、仏と崇<あが>められたのがほとんどである。もちろんその教えによって人間に歓喜を与え社会の福祉増進に寄与するところ大であったからであろうが、開祖生存中にそのように認められた宗教はないと言ってもいい位で、法難は当然のように思われ、信者としても苦難の生活を寧<むし>ろ喜ぶような傾向にさえなってしまったのである。特にキリスト教のごときはキリスト贖罪の受難を亀鑑<きかん>として、苦しみを覚悟の上蕃地深く分け入り、身を挺<てい>して活躍した悲壮なる史実も、これを読んで胸の迫る思いがするのである。だからこそ今日のごとく世界到る所にキリスト教ほど根強く教線の張られた宗教はないのである。日本においてすら、かのキリスタンバテレンの迫害や天草の乱などを見ても思い半ばにすぐるであろう。
ところが以上書いた事は他動的不可抗力による苦難であるが、そうではなく自分自ら進んで苦難を求める信仰も少くはない。すなわちキリスト教における一派の戒律厳守、禁欲主義者、修道院に一生を捧げる人達もそうだが、かのマホメット教、中国の道教やラマ教、インドのバラモン教なども同様であって、彼等は禁欲を以て信仰の主眼としている事である。
迷信邪教
今日新聞、雑誌、ラジオ等、盛んに迷信邪教に瞞<だま>されるなという事を警告しているが、なっるほど迷信邪教は昔から絶えず輩出しているばかりか、今日は最も甚だしいようである。しかし全部が全部迷信邪教とは言われまい。その中の幾分かは今日立派な宗教として残っているからである。実を言えば、今日世界最大の宗教として隆盛を謳<うた>われているかのキリスト教にしてもそうである。その立教者であるイエス・キリストが生存中は、迷信邪教として遇<ぐう>され、遂にあれほどの刑罰を受ける事になったのを見ても領<うなず>けるのである。茨の冠を被せられ刑場へ曳<ひ>かれてゆくその傷ましき御姿に対し、それを阻止すべき一人の義人<ぎじん>も現われなかったという事実にみても、いかに時人<じじん>から迷信邪教視せられていたかが察知せらるるのである。
正邪の戦い
これは誰も知っている事だが、昔から宗教というものは、いつの時代でも、初めどこか普通人と違ったところのある人間が、一念発起と共に世を救わんとの願望から一宗一派を立て、教義を作り、相当人助けをしてる内、ようやく世間から認められ、いよいよこれからという時になると、必ずと言いたいほど妨害が現われる。この大きい例が釈迦に提婆<だいば>、キリストにサタンとして誰も知っているが、しかもその宗教に力があり将来性があればある程、排撃弾圧<はいげきだんあつ>も酷いのである。そこで彼等はまず時の権力者を動かし、世人に憎悪感を起させるべく、巧妙な理屈やデマをデッチ上げ、宣伝これ努める。曰<いわ>く「アノ宗教は人を瞞<だま>し遂には家をも亡ぼすような恐ろしい迷信であるから、決して触れてはならない」というように思わせる。もちろん調べもせずして独善的に決めてしまい、社会的信用のある人士や、一流の言論機関等を扱う人を自由にするのも、皆邪神が憑依しそう思わせるのであるから、御本人は一向気がつかず、自己意識と思っていると共に、一般人にも邪神の仲間が憑依し、両者相呼応<あいこおう>するのだから堪らない。これが邪神の仕組である。
東洋と西洋
緯-月、水、西洋、体、女、キリスト、白、海、夜
右のごとく、今日までは東洋は経の線を固持し、西洋は緯の線に満足していた。しかしながららいずれの日かこの経緯の線が結んで十字の形にならなければならない。というのは、東洋の精神文明と西洋の物質文明との結合である。この結ぶ事によって、世界人類は初めて理想の文化時代に入るのである。キリスト教の十字架はそれの暗示であり、仏教の卍<マンジ>も同様の意味であろう。
大乗と小乗
次に私は宗教における大乗小乗を説いてみよう。元来仏教は小乗であり、キリスト教は大乗である。仏教は火であり、キリスト教は水である。火は経に燃え、水は緯に流れる。故に仏教は狭く深く孤立的で、緯の拡がりがない。反対にキリスト教は大乗であるから、水の流溢<りゅういつ>するごとく世界のすみずみまでも教線が拡がるのである。面白い事には、小乗である仏教の中にも大乗小乗の差別がある。すなわち南無阿弥陀仏は大乗であり陰であるが、南無妙法蓮華経は小乗であり陽である。大乗は他力であり、小乗は自力である。彼の阿弥陀教信者が「南無阿弥陀仏と唱えさえすれば救われる」という他力本願に対し、小乗である法華経は「妙法蓮華経を唱えるのみではいけない。宜しく難行苦行をすべきである」という事になっている。このように経と緯と別々になっていたのが今日までの宗教であったが、最後は経緯を結ぶ、すなわち十字型とならなければならない。この意味において時所位に応じ経ともなり緯ともなるというように、千変万化、応現自在の活動こそ真理であって、この十字型の活動が観音行の本義である。昔から観世音菩薩は男<おのこ>に非ず女<おみな>に非ず、男であり女であるということや、聖観音が御本体で、千手、十一面、如意輪<にょいりん>、准胝<じゅんてい>、不空羂索<ふくうけんさく>、馬頭の六観音と化現<けげん>し、それが分れて三十三相に化現<けげん>し給うということや、観自在菩薩<かんじざいぽさつ>、無尽意菩薩<むじんいぽさつ>、施無畏菩薩<せむいぽさつ>、無碍光<むげこう>如来、光明如来、普光山王<ふこうさんのう>如来、最勝妙<さいしようみょう>如来、その他数々の御名があり、特に応身弥勒と化現し給うことなどを以てみても、その御性格はほぼ察知し得られるのである。因<ちな>みに阿弥陀如来は法身<ほっしん>弥勒であり、釈迦如来は報身<ほうしん>弥勒であり、観世音菩薩の応身<おうしん>弥勒の御三体を、三尊の弥陀と称<とな>え奉るのである。又日の弥勒が観音であり、月の弥勒が阿弥陀であり、地の弥勒が釈迦であるとも言えるのである。ここで注意すべきは、観世音菩薩の御本体は天照大御神の顕現<けんげん>という説があるが、これは誤りで、天照大御神は大日如来と顕現し給うのである。
大乗宗教
真に生命があり価値がありとすれば、人力を以て弾圧すればするほど、反って発展の度を高める事になるのである。何よりの例はかのキリスト教である。教主キリストを断罪に処したに拘らず、今日の隆盛をみれば何をか言わんやであろう。
真の大乗宗教
早い話が、世界的宗教としての仏教、キリスト教は固<もと>より、日本における神道、仏教にしてもそうであり、しかもその一宗一派の中にも分派があり、それぞれの色分けになっているので、これらを考えてみると、どうも根本的不合理を感ずる。というのは、宗教なるものの本来である。言うまでもなく、人間相互の親愛、平和協調精神が生命である以上、目標は一つであらねばならない。従ってその手段方法にしても色分け等ないのが本当ではなかろうか。それが別れ別れになっているとしたら、人類の思想もそれに伴なうのはもちろんで、これが又社会混乱の原因ともなるであろう。しかも宗教という善の側にある人の力は分散されるから、邪神の力に対抗する事も出来なくなる。これは事実を見ても分るごとく、宗教よりもその反対側である邪悪の方の力が勝つ事が常にある。もっとも神は十全、邪神は九分九厘であるから、最後は神が勝つのはもちろんだが、それだけ善の方の苦しみは並大抵ではない。これに就いて私の経験上そういう事がよくあった。それは邪神の勢力が旺盛でほとんど支配権を握っており、絶えず我々に対し眼を光らし、隙あらば切り込んで来る。かのキリストにサタン、釈迦に提婆<だいば>の言い伝えは今も変りはないとさえ思われる。
宗教と分派
宗教には種々の派がある。例えばキリスト教に於ても、カトリック、プロテスタント等を主なるものとし、新旧種々の派がある。仏教に於ても、日本だけでさえ真宗、浄土、天台、真言、禅、日蓮等を主なるものとし、その一派が各派に分れており、現在五十八派に分れている。神道に於ても神社神道を別とし、教派神道に於ては大社<たいしや>、御嶽<おんたけ>、扶桑<ふそう>、禊、<みそぎ>、天理、金光等を主なるものとし、十三派あるにみても明らかである。
以上のように何派にも分離するという事は理屈に合わないと思うが、私はこう見るのである。即ちその原因は教典にあるのではないか。というのは、『聖書』にしても仏典にしても甚だ矛盾難解<むじゆんなんかい>な点が多く、その解釈に当っては人により区々<まちまち>の見解に分れるので、勢い種々の分派が出来たのであろう。尤<もつと>も教派神道は、キリスト教、仏教の如く大教祖がなく、『古事記』、『日本書紀』等の古典を基本としたり、神憑的教義や教祖の教え等によって成ったものである。
地上天国
地上天国という言葉は、何たる美しい響きであろう。この言葉ほど光明と希望を与えるものはあるまい。しかるに多くの者は、地上天国などという事は実現の可能性のない夢でしかないと思うであろうが、私は必ずその実現を確信、否実現に近づきつつある事を認識するのである。ナザレの聖者キリストが、「汝等悔改めよ、天国は近づけり」と言った一大獅子吼<いちだいししく>は、何の為であろうかを深く考えてみなくてはならない。その教えが全世界の大半を教化し今日のごとく大を成したところの、立教の主たるキリストが、確実性のない空言<くうげん>をされ給う筈がないと私は思うのである。しからば地上天国とはいかなるものであろうかという事は、何人<なんぴと>も知りたいところであろう。私は今それを想像して書いてみよう。
天国と地獄
餓鬼道に堕ちる原因は、自己のみが贅沢をし他の者の飢餓など顧慮しなかった罪や、食物を粗末にした等が原因であるから、人間は一粒の米といえども決して粗末にしてはならないのである。米という字は八十八と書くが、これは八十八回手数がかかるという意味で、それを考えれば決して粗末には出来ないのである。私も食後茶を飲む時茶碗の底に一粒も残さないように心掛けている。かのキリスト教徒が食事の際合掌黙礼するが、これは実によい習慣である。もちろん食物に感謝の意味で、人間は食物の恩恵を忘れてはならないのである。