迷信邪教

 今日新聞、雑誌、ラジオ等、盛んに迷信邪教に瞞<だま>されるなという事を警告しているが、なっるほど迷信邪教は昔から絶えず輩出しているばかりか、今日は最も甚だしいようである。しかし全部が全部迷信邪教とは言われまい。その中の幾分かは今日立派な宗教として残っているからである。実を言えば、今日世界最大の宗教として隆盛を謳<うた>われているかのキリスト教にしてもそうである。その立教者であるイエス・キリストが生存中は、迷信邪教として遇<ぐう>され、遂にあれほどの刑罰を受ける事になったのを見ても領<うなず>けるのである。茨の冠を被せられ刑場へ曳<ひ>かれてゆくその傷ましき御姿に対し、それを阻止すべき一人の義人<ぎじん>も現われなかったという事実にみても、いかに時人<じじん>から迷信邪教視せられていたかが察知せらるるのである。

 我が国においても、遠きは法然、親鸞の遠島を始め、かの日蓮が法華経を弘通<ぐつう>するに当って、その法難のいかに苛酷<かこく>であったかという事や、近きは天理教開祖の中山ミキ刀自<とじ>の二十数回の留置場入り、数回の入獄等の例にみても明らかである。ただ釈尊のみは全然迫害を蒙<こうむ>らなかった事は、その出身が皇太子であったという理由による為であろう。

 私としても今日新しく発生した種々の信仰をみる時、その余りに低劣なるに顰蹙<ひんしゅく>せざるを得ない事がある。もし私が当局としても厳重なる取締りをせざるを得ないと思うほどで、社会に迷惑をかけ人騒せをさせる神憑的信仰や、到底見るに堪えない多数の信徒が踊り狂う狂態<きょうたい>や、突飛<とっぴ>な予言をし、世人に恐怖心を与えたり、騒音によって近隣を悩ます等の信仰も本当のものとは思えない。又中には金儲けの目的を以てする宗教企業もあるが、これらのすべては時の推移と共に何時<いつ>かは没落し消滅するものである。

 広い世間には恐ろしい信仰がある。それは一種の脅迫信仰である。例えば何年何月何日には大変事があるから、助かりたい人は、何々教に入らなければ危ないと言い、そうかと思うと、一旦入信した者が脱退しようとする場合、その先生が恐ろしい事を言う。「貴方<あなた>がこの信仰を離れたら最期、必ず死ぬ」とか、又は「一家死に絶える」というような嚇<おどか>しを言って脱退を止めようとするが、これらはいずれも正しいやり方ではない。一種の脅迫であって、恐ろしいから信仰を続けるという事は甚だ間違っている。元々神仏は愛であり慈悲である以上、脅迫などある筈はないのである。

 有難い神仏であるから入信したいというのが本当の信仰である。又こういう事も警戒しなければならない。それは執拗に信仰を勧め、何度断っても来ては勧め、又は長時間に捗<わた>っての種々の行事を行い、為に家業に影響を及ぼす事になるので、こういう信仰なども本当のものではないと私は思うのである。

「天国の福音書」 昭和29年08月25日

天国の福音書