霊線に就いて

 霊線という言葉は今日まであまり使われないようである。というのは、霊線というものの重要性を未だ知らなかった為で、空気より稀薄な目に見えざるものであったからである。ところが人事百般、この霊線による影響こそは軽視すべからざるものがあり、人間にあっては幸不幸の原因ともなり、大にしては歴史にまで及ぶものである。故に人間はこの霊線の意義を知らなくてはならないのである。

 そもそも霊線なるものの説明に当って、前以て断っておきたい事は、これは科学であり、宗教であり、将来の学問でもある。相対性原理も、宇宙線も、社会や個人に関するあらゆる問題も、霊線に関係のないものはないのである。まず人間と霊線の関係から述べてみよう。

 ここに一個の人間がある。まず読者自身と思ってもいい。その自分は、自分に繋っている霊線なるものが、何本か、何百本か、何万本か、計り知れないほどあるものである。霊線には太い細いがあり、長い短いがあり、正もあり邪もあって、それが絶えずある程度の影響、変化を人間に与えている。故に人間は霊線によって生存を保っていると言っても過言ではない。その中で夫婦が繋っている霊線が最も太く、親子はそれに次ぎ、兄弟、伯父、甥、従兄弟、友人、知己等順々に細くなっている。昔から縁<えにし>の糸とか、縁が結ばれるとか言うのは、この事を言ったものであろう。そうして霊線は常に太くなったり細くなったり変化しており、夫婦仲睦じい時は太く光があり、争う時はある程度細くもなり光をも失うのである。親子兄弟その他も同様であるが、これ以外霊線が新しく作られる事がある。それは新しく出来た知人友人特に恋愛等の場合であって、恋愛が高潮に達するや無制限に太くなり、両方の霊線が激しく交流する。それが一種微妙な快感を与え合うと共に、一種の悲哀感<ひあいかん>、寂蓼感<せきりようかん>をも反映し合うのである。遂には霊線は極度に強力化し、到底別離し能わざるに到るのは右の理によるので、こういう場合第三者がいかに説得しても何等効果がないばかりか、反って熱度を増すようになるのは誰も知る通りである。相愛は丁度電気の陰陽が接触して電力を起すようなもので、その場合電線の役目をするのが霊線である。私は以前同性愛に陥った女学生が情死をしようとした一歩手前で助けた事がある。それは一方の陽電の方を霊的に消滅さしたのである。およそ一週間位で成功し、陽電女性は愛着の情熱が冷却し平常のごとくなったと共に、相手の女性も平常に復したという経験がある。しかしながら、他人の霊線は打切る事が出来るが血族は打切る事が出来ない。次に親子の霊線には注意すべき事がある。それは、絶えず親は子を思い、子は親を思うので、双方反映し合っているから、子供の性質は霊線を通じて親の性質を受入れる事になるので、親が子を良くせんとする場合、先ず親自身の心を長くしなければならない。世間よく親が道に外れた事をし乍ら子に意見をしても、余り効果が無いのはその為である。併しこういう例もよくある。それはあんな立派な親であり乍ら、息子はどうしてあんなに不良であるのかと言って不思議がるが、この親は功利的善人で、外面は善く見えるが魂は曇っている為で、それが子に反映するからである。次に兄弟で一方が善人で一方が悪人の場合がある。これはどういう訳かというと、前生の関係と、親の罪の原因とがある。これに就いて説明してみよう。

 この説明に当って人間再生の原理から説かなければならない。先ず簡単に説明すれば、人間は死後霊界に往<ゆ>く、即ち霊界に生まれるのである。仏教で往生<おうじよう>と言うのは「生まれ往く」と書くが、霊界から見ればそう言える訳である。然るに霊界は、その人が現界において犯した種々の罪穢に対し浄化作用が行われ、ある程度浄化された霊から再生する。しかるに前生において悪人であった者が、刑罰やその他の事情で死に際して悔悟し、人間は悪い事は決してするものではない、この次生まれ変った時は必ず善人になろうと強く思うので、再生するや大いに善事を行うのである。この理によって、現世生まれ乍らの善人であっても、前生は大悪人であったかも知れない。そうして、人間は生前に死後の世界有るを信じない人が多いから、死後霊界において安住が出来ず、生の執着によって浄化不充分の儘<まま>再生する。その為に罪穢が未だ残存しているから、その残存罪穢に対し現世において浄化作用が行われる。浄化作用は苦しみであるから、生まれながらの善人でありながら不幸であるのは、右の理に由るのである。又生まれ乍らにして不具者がある。例えば盲目とか聾唖、畸型とかいうのは、変死に困<よ>る死の為、その際の負傷が浄化半途にして再生するからである。この再生について今一つ顕著な事実を書いてみよう。嬰児が出産するや、その面貌が老人のようなのがよくある。これは老人が再生した為で、二、三ヵ月経ると初めて赤児らしき面貌になるもので、これは経験者は頷<うなず>くであろう。

 次に親の不正な心が兄弟の一方に反映して悪人となり、親の良心が反映して善人となる事もある。又こういう例もよくある。親が不正の富を積んで資産家になった場合、祖霊は、その不正の富を蕩尽<とうじん>しなければ一家の繁栄は覚束<おぽつか>ないから、その手段として子の一人を道楽者にして、金銭を湯水の如く使わせ、遂に無財産にまでするのである。この場合道楽息子に選ばれた者は、実は一家を救うべく立派な役をしている訳で、それを知らない人間は親の財産を潰<つぶ>した怪しからぬ奴と看做<みな>すが、ろ気の毒な訳である。

 霊線は、人間に於ては生きている近親者のみではない。死後霊界に於ける霊とも通じており、正神に連結している霊線もあり、邪神に連結しているそれもある。正神は善を勧<すす>め、邪神は悪を勧める事は勿論で、人間は常に正邪いずれかに操られているのである。そうして霊界に於てある程度浄化されたるものが守護霊に選抜され、霊線を通じて人間の守護をする。即ち危難の迫れる現界人に対し、危険信号を伝えて救おうとする。この例として、汽車などに乗車せんとする場合、時間が間に合わなかったり、故障があったりして乗り損ね、次の汽車に乗る。すると乗り損ねた汽車が事故に遭い、多数の死傷者が出る等の事があるが、これらは守護霊の活動に因るのである。守護霊は現界人の運命を前知し、種々の方法を以て知らせようとする。

 霊線は人間の階級に従って数の多少がある。数の多い人、例えば一家の主人なれば、家族、使用人、親戚、知人。会社の社長ならば社員全部。公人ならば村長、町長、区長、市長、知事、総理大臣、大統領-国王等、いずれもその主管区域や、支配下に属する人民との霊線の繋りがあり、高位になるほど多数となる訳である。この意味において、各首脳者たるべき者の人格が高潔でなければならない。首脳者の魂が濁<にご>っていれば、それが多数に反映し、多数者の思想は悪化するという訳であるから、一国の総理大臣などは智慧証覚に富むと共に、至誠事に当るべき大人格者でなくてはならないのである。しかるに国民の思想は悪化し、道義は頽<すた>れ、犯罪者続出するがごときは、為政者の責任となる訳である。特に教育者のごときは、自己の人格が霊線を通じて学徒に反映する事を知ったなら、常に自己の霊魂を磨き、師表<しひょう>として恥ずかしからぬ人とならなければならないのである。

 特に宗教家であるが、一宗の教祖、管長、教師等に至っては、多数の信徒から生神様のごとく讃仰<さんぎょう>される以上、その霊魂の反映力は著しいものであるから、大いに心すべきである。しかるにその高き地位を利用して面白からぬ行動のあった場合、信徒全般に反映し、遂にはその宗教は崩壊の止むなきに立到るので、このような例は人の知るところである。

 霊線は人間ばかりではない、神仏からも人間に通じさせ給うのである。只人間と異なる処は、神仏からの霊線は光であり、人間の霊線は上根の人で薄光<うすひかり>位であり、大抵は光のない灰白線<かいはくせん>のごときもので、悪人になるほど黒色を帯びるのである。世間よく友人を選ぷ場合善人を望むが、それは善に交われば善となり、悪に交れば悪になるという訳で、全く霊線の反映によるからである。

 神仏といえども正邪があり、正神からの霊線は光であるから、常に仰ぎ拝む事によって人間の霊魂は浄化されるが、邪神からは光どころか一種の悪気を受ける事になるから、思想は悪化し不幸の人間となるのである。故に信仰する場合、神仏の正邪を判別する事が肝要である。又正神といえども、神格の高下によって光の強弱がある。そうして高位の神仏ほどその信徒に奇蹟の多いのは霊線の光が強いからである。以上、人間に関する霊線の意義を概説したが、人間以外の事象にも霊線の活動がある。それは人間が居住している住宅、平常使用し愛玩している器物、特に愛玩の物ほど霊線が太く、衣服装身具革もそうである。こういう話がある。以前米国の心霊雑誌中にあった記録であるが、ある一婦人は不思議な能力を持っている。それは、器物によってその持主の人相、年齢、最近の行動等が判るそうで、その場合器物を熟視すると、その器物の面に写真のごとく現われているとの事であって、これは霊線によって印画されたものである。これによってみても、霊線の活動はいかに幽玄微妙であるかが知らるるのである。

 近来宇宙線なるものを科学的に研究しているが、これは私の見るところによれば、星と地球と連結している霊線である。元来地球が中空に安定しているという事は、地球周囲の衛星の霊線が地球を牽引<けんいん>しているからである。故にその霊線の数は何万、何億あるか測り知れないほどの数で、地球の中心部にまで透過しているのである。ついでだから、私は天体と地球との関係についていささか述ぺてみよう。 元来天体と地球とは合鏡<あわせかがみ>のごとくになっている。そうして星には明暗二種あり、すなわち光星と暗星である。暗星は全然光がないから人間の目には映らないが、年々光星に変化し、増加する。何故暗星が光星に変化するかというと、それは宇宙物質の硬化作用によるので、硬化の極点に達した時光輝<こうき>を発し始めるので、地球にある最硬化の鉱物が最も光るダイヤモンドであるのと、同一の理である。従って地球の創造当時は、星の数は暁の星のごとく少かったもので、星の数の増加と地球上の人類の増加と正比例しているのである。故に向後<こうご>、星の数も人類の数も、いか程増加するか測り知れないものがあろう。よく天文学者が新星を発見するが、これらは暗星が光星に変化し、人間の目に映じ始めた為である。又流星は星の分裂作用であり、隕石はその際の破片である。星にも木火土金水の巨星を初め、大中小無数の星があるが、これらもことごとく地球人類に反映しているので、右の五星はその時代に世界的人物五人ある訳である。人間を星に準<なぞら>え、著名な人物に対し、巨星往来とか巨星墜つとか言う事も、面白いと思うのである。

 泰西<たいせい>に於ても、星占の頗<すこぶ>る盛んな時代があって、僧侶がそれを行い、人間の吉凶禍福<きっきょうかふく>、病気判断等に利用したりして一世を風靡したという事が史実にある。支那<シナ>の易学にも九星を本義とした等、反って古代人が星に関心を有<も>っていた事は無意味ではなかったと思うのである。

 又火星の生物説であるが、これは誤りである。私の解するところによれば、生物はこの地球だけであって、しかも大字宙の中心が地球であり、万有は人類の為の存在であるから、人間はいかに尊いものであるかを思うべきである。

「天国の福音書」 昭和29年08月25日

天国の福音書