光琳堂は、無経験から始めた商売であり、先行きのことはまったくわからなかった。けれども母の助けを借りながら、正直流をモットーにして一生懸命商売に励んだので、しだいに繁盛して、店はいつの間にか手狭になってきた。そこで、半年もたたないその年の一一月、同じ通りのすぐ目と鼻の先にあたる南槇町一七番地(現在、中央区京橋一丁目五番地)に光琳堂より大きな家を借り、住まいと店とを別々にし、腰を落ち着けて商売に没頭できるようにしたのであった。教祖の「改製原戸籍」には、南槇町一七番地に在住するものとして、冒頭につぎのような記事が記載されている。
「東京市京橋区築地弐〈に〉*丁目弐拾七番地
戸主岡田武次郎弟 分家届出 明治参拾八年捨壱月弐拾五日受附」
*振り仮名は編集者・挿入
光琳堂の仕事も軌道に乗り、独り立ちの自信のついた教祖は、分家し、ここに戸主として一家を構えることになったことが、この記録ではっきりわかる。
取り扱う商品の多くは女性が身に付けるものである。正直をモットーに仕事に精を出す教祖の人柄は、店に也入りする客に好感を与えずにはおかなかった。まして年ごろで独身である。そろそろ身を固めては、と気をもんでくれる人もあった。そんな話の一つに浅草の大きな製粉業者から、
「ぜひうちの娘の婿になってもらいたい。」という話があった。これは、教祖がいい耳だったので、大きな耳の人には福運があるというわけで、そこを見込まれての縁談であった。しかし教祖は、
「自分は養子には行かない。一本立ちになって、一家を成し何かをやる。」
と言って、その縁談をきっぱり断わったので、仲に立った親類ががっかりしたということもあった。そのうち高橋源太郎が自分の親類筋にあたる相原タカとの縁談を持ってきたのである。
タカの実家は神奈川県久良岐郡寺前村(現在の横浜市磯子区金沢寺前町)にあり、父の房吉は若いころ力士をしていたことがあったが、このころは米屋を営んでいた。教祖の母・登里もこの娘が気に入り、嫁に迎えることとなった。高橋源太郎が媒酌人をつとめ、父の三周忌をすませた明治四〇年(一九〇七年)六月にめでたく式をあげた。時に教祖二四歳、タカ一九歳であった。
タカは五歳から六歳まで二年の間親もとを離れて、養女に出されたこともあって、負けん気なしっかり者であった。米屋の次女として生まれ育ったから、商家の女としてのつとめを、頭でなく体で覚えこんでおり、商売上の取り引きから、店月の扱いまで、男に負けないものを持っていた。このことは教祖のもとに嫁いでからも大いに生かされた。仕事の手際が良く、いつも何かしていないではいられない働き者であった。家事から店の仕事まで、何人分もの活躍をし、その忙しさの中から暇をつくりだしてはお花やお茶を習っていた。店の拡張とともに店月がふえてからでも、店員の洗濯物を洗ってやるほどの面倒見の良さで、みなの信頼も厚かった。手元に置くより安心だからと店見たちが預金通帳を持ってきて、「お内儀〈かみ〉さん、これを預っておいてください。」と言う。するとタカは、億劫がらずに受け取って金庫に入れてやるのだった。教祖の店が創業以来、わずか一〇年にして、小間物の製造及び卸問屋として大きく飛躍することができたのは、こうしたタカの内助の 功に負う点もまた多大なものがあった。