順序を過る勿れ

 昔から「神は順序なり」という言葉があるが、これはすべてに捗って重要事であり、心得おくべき事である。まず森羅万象の動きを見れば分るが、総て順序正しく運行されている。四季にしても、冬から春となり、夏となり、秋となるというように、梅が咲き、桜が咲き、藤が咲き、菖蒲が咲くというように、年々歳々不順序<くるい>なく生成化育が営まれる。かように大自然は順序を教えている。もし人間が順序の何たるを知らず、順序に無関心である結果は、物事が円滑にゆかない、故障が起り勝ちで混乱に陥りやすいのである。ところが今日までほとんどの人間は順序を重要視しないが、これを教えるものもないから無理もなかった。私は一般が知っておかねばならない順序の概略を書いてみる。

 まず順序について知りおくべき事は、現界のあらゆる事象は霊界からの移写であると共に、現界の事象もまた霊界へ反映するのである。そうして順序とは道であり、法であるから、順序を紊<みだ>すという事は道に外れ、法に悖<もと>り、礼節に叶わない事になる。仏語に道法礼節という言葉があるが、この事を言うたものであろう。

 まず人間が日常生活を営む上にも、守るべき順序があって、家族の行動についても自ら差別がある。例えば部屋に坐る場合、部屋の上位は床の間であり、床のない部屋は入口から最も離れたる所が上座である。上座に近き所に父が坐し、次に母が、次に長男が、長女が、次男が、次女がというように坐るのが法であって、こうすれば談話も円満にゆくのである。いかに民主主義でも、法に外れてはうまくゆく筈がない。例えば、ここに一人ずつしか渡れない橋があるとする。それを数人が一度に渡ろうとすれば、混乱が起り川へ転落する。どうしても一人ずつ順々に渡らなければならない。そこに順序の必要が生まれる。又、客が来るとする。客と主人との間柄が初対面の場合と、友人、知人の場合と、上役や部下の場合、坐るべき椅子も座席も自ら順序がある。挨拶等もその場に適切であり、相手によって差別があるから、それに注意すればすべて円満にゆき、不快を与えるようなことはない。又女性、老人、小児等にしても、態度談話にそれぞれ差別がある。要は出来るだけ相手に好感を与える事を本意とすべきである。

 次に、子女や使用人を二階三階に寝かせ、主人夫婦は階下に寝るという家庭があるが、これらも誤っており、こういう家庭は子女や使用人は言う事を聞かなくなるものである。又妻女が上座に寝、主人が下座に寝る時は、妻女が柔順でなくなる。その他神仏を祀る場合、階下に祀り、人間が二階に寝る時は、神払の地位が人間以下になるから、神仏は加護の力の発揮が出来ないばかりか、反って神仏に御無礼になるから、祀らない方がよい位である。仏壇の如きもそうである。祖先より子孫が上になる事は非常な無礼になる。何となればこれらは現界の事象が霊界に映り、霊界と現界との調和が破れるからである。

 この理は国家社会にも当嵌<あてはま>るが、最も重大な事は産業界において資本家と勤労者の闘争である。特に最も不可である事は生産管理の一事で、これほど順序を紊<みだ>す行動はあるまい。ここに一個の産業がある。それを運営し、発展させるとすれば、総てに捗って順序が正しく行われなければならない。すなわち社長は一切を支配し、重役は経営の枢機<すうき>に参画<さんかく>し、技術家は専門的技術に専念し、勤労者は自分の分野に努力を払う等、全体がビラミッド型に一致団結すれば、事業は必ず繁栄するのである。しかるに生産管理はピラミッドを逆<さかさ>にするのであるから、倒れるに決っている。この理によって、資本家と労働者と闘争するにおいては、その結果として勤労者も倒れ資本家も倒れるという事になるから、実に愚かな話である。故にどうしても両者妥協し、順序を乱さず、和を本位として運営すべきで、それを外にして両者の幸福は得られる訳がないのである。私は、産業界から闘争という不快なる文字を抹殺するのが、繁栄の第一歩であると思う。しかしながら、以前のごとく資本家が勤労階級を搾取し、利己的本位の運営が行過ぎる結果は、共産主義発生の原因となったのであるが、今日は反動の反動として共産主義の方が行過ぎとなり、産業が萎靡<いび>し、生産が弱体化したのであるから、一日も早くこれに目覚めて、あくまでも相互扶助の精神を発揮し、新日本建設に努力されん事を望むのである。これが私の言う「順序を正しくせよ」という意味である。

 戦時中東条内閣の時、東条首相は社長の陣頭指揮という事を唱え、又自分も先頭へ立って活躍したが、これほどの間違いはない。何となれば、昔から事業を行う事を経綸を行うと言うが、経綸とは車を廻す事である。すなわち首脳著は車の心棒に当るので、車が良く廻るほど心棒は動かない。又車は心棒に近いほど小さく廻り、外側になるほど大きく廻り、心棒が躍るほど車の廻転の悪いのはもちろんである。

 右の理によって考える時、こういう事になる。すなわち心棒に近い所ほど少数者が担当し、漸次遠心的に多数者となり、最外側<さいそとがわ>のタイヤに至っては道路に接触する為過激の労働となる事によってみても、順序の何たるかを覚り得らるるであろう。故に、すべて首脳者たる者は、奥の方に引込み、頭脳だけを働かせ、采配を振っておれば、事業は発展するのである。

「天国の福音書」 昭和29年08月25日

天国の福音書