時期を待て

 社会各方面を具<つぶ>さに観察する時、失敗者の余りにも多い事である。ところが失敗の結果として、御当人だけの苦しみなら、やり方が悪いとか運が悪いとか言って諦めてしまえばそれで済むが、実はそれだけでは済まない。では何かというと、一人の失敗が家族を路頭に迷わせたり、親戚、知人にまで迷惑を及ぼすという事になるから、一種の社会悪を構成する事になる。つまり最初の出発は悪意ではなかった事はもちろんであるが、結果からみてそうなる以上、軽々に看過出来ない問題である。

 右のごとくである以上、失敗者のその原因を深く検討する必要がある。その結果余り人々の気のつかないところに、その原因を見出すのである。というのは最初事に当る場合、充分計画を立てて、遺憾なく準備をしてかかる。ではあろうが、さて行ってみると予期通りにゆかないばかりか、思いもかけない邪魔や障碍<しょうがい>が起るので、御当人もその判断に苦しむ事となり、前途が判らなくなるというのが、失敗者の誰もが辿<たど>る経路である。これはどこに原因があるかを説いてみよう。

 右は一言にして言えば時期という事を無視するからである。人事百般この時期ほど絶対的のものはない。例えばあらゆる花弁<かき>や果物にしても農作物にしても、すべては時期がある。時期に合わなければ他の事はいかに好条件であっても良成果を挙げる事は出来ない。秋季草花の球根を埋めるから春になって花が咲く。春種を蒔き球根を植えるから、夏から秋に美しい花が咲くのである。果実にしても熟す時期は決っている。熟さない時採っても食う事は出来ない。充分熟した時に採ってこそ、美味な食物である。農作物にしても、種播きや移植等すべて適期がある。もちろん風土気候にも適合しなければならない。

 以上のように、大自然は人間に対し時期の重要性を教えており、大自然のあるがままの姿こそ真理そのものである。従って人間は何事をなすにも大自然を規範としなければならない。それに学ぶ事こそ成功の最大条件である。この意味において、私が唱える神霊療法も無肥料栽培も、その他の種々の方法にしても大自然に従う事を基礎としているから、ほとんど失敗はなく予期の成果が得られるのである。故に私は何かを計画する場合決して焦らない。充分多角的にあらゆる面から客観し、熟慮に熟慮を重ね、いかなる点からみても正しく、社会人類の為有益であり、永遠の生命ある事を確認し、しかる後準備万端を調え時期を待つのである。ところが大抵の人はこの時を待つ辛抱が中々出来ない。時期未だ熟していないのに着手するから、計画と時期とにズレを生じ思うようにゆかない、あせる、益々ズレが大きくなる、遂に失敗する-という順序になるのである。従って肝腎な事は時期来<きた>るまでの期間の辛抱である。物には必ず丁度好<よ>い時があるものだ。昔から「待てば海路の日和<ひより>あり」とか「果報は寝て待て」とか「狙い打ち」とかいう諺があるが、全くその通りである。

 ところが右のような私のやり方に対し非常にまだるがる人が以前はよくあった。又種々の献策や希望を言う人もあったが、私はそれらを採用すべく約束してもなかなか実行に移さないので、焦れたり不思議がる人もよくありた。私としては、時期が来ないから手を出さないまでである、昔から「チャンスを掴め」とか「風雲に乗る」とか「機会を逸するな」というような言葉もあるが、よくこの理を喝破<かっぱ>している。しからばその機運というものは何によって判断するかというと、まずあらゆる条件が具備し、気運からみてどうしても計画を実行しなければならないという勢いが迸<ほとばし>るようになる。そういう時こそ機が充分熟したのであるから、着手するや少しも無理がなく楽々すべてが運んでゆく。そういう訳で更に力が要らない、自然にうまくゆく。要するに熟慮断行の四字に尽きる。例えば重い物を坂から落す場合、閊<つか>えているものがある。それを無理に動かそうとすると力が要る。そこを我慢して待っていると、障害物が石の重みで段々弱ってゆく。もう一息という時指一本で押すと訳なく転がるようなものである。

 「鳴かずんば啼<な>くまで待とう時鳥<ほととぎす>」とは家康の性格を諷<ふう>したのであるが、彼が三百年の命脈を保ったのも、全く時期を待つという、その為でもあった。

 以上によって、時期なるものが如いかに重要であるかを知るであろう。大本教祖のお筆先に曰く「時節には神も敵<かな>わぬぞよ」とあるが、一言に喝破し得て妙なりと言うべきである。

「天国の福音書」 昭和29年08月25日

天国の福音書