五 世の苦しみを治す手

 昭和九年(五十三歳)の五月一日に、かねてから東京の中心に家をもとめていたが、麹町区平河町に適当な家がみつかったのでこれを借り、信仰的指圧療法という治療所を開業し、応神堂と名づけた。かく治療所を開業したのは、昭和三年から六年間にわたる霊の研究とあいまつて、神幽現三界の実相をきわめ、病気と健康に関する発見などによって、神霊治療法こそ、病なき世界を出現させることのできる方法であるとの確信を得たからである。犯罪の裏に女あり、悲劇の裏に病ありである。もし世に病貧争のない社会が実現すれば、それこそ神の理想である幸福な平和な社会である。ところが人間には病貧争の三大苦がある。しかもこの三大苦の根本は病であるから、病なき世界を実現できれば、他はおのずから解決できる、とこう考えたから、病なき世界をつくるために神霊療法による治療所を開業したのである。

 この神霊療法を浄霊法と名づける。浄霊法は病気を治すのが直接の目的ではあるが、それによって幸福を生む方法でもある。ここに「浄霊療法説」について略述しょう。

 科学は物質だけを認めて、霊の存在を認めない。しかし万有には物質だけではなく、霊がある。その霊の実在を知ることが第一である。神仏は霊であるから、霊の実在を知らなければ、神仏の存在はわからない。霊は肉眼では見えない。しかし見えないものは直ちにないとはいえない。空気は見えないから、ないといえるであろうか。心や精神は見えないから、ないといえるであろうか。生命力や生命体の生産力は見えないから、ないといえるであろうか。それらは見えないけれどもある。特に心のはたらきや精神の活動や、生命力や生産力は目に見えないから、神秘なはたらきというのである。

 もし人間が肉体だけなら、それは単なる物質にすぎない。生命力もなければ精神の活動もないはずだ。霊の中心に心があり、心の中心に魂がある。霊・心・魂の三者一体の活動が意志想念であり、それが肉体の支配者であるから、霊が主で体が従である。

 人間は霊(体)と(肉)体の二元素からなるが、人間が生きて動いているのは、霊と体が一つになつて、霊が体を動かしているのである。したがつて人間は霊主体従の存在である。

 霊には神仏霊(神霊・仏霊)と人間霊と動物霊がある。はじめのものは高級霊であり、おわりのものは低級霊で、そこには霊格の高下がある。またその性質によって、善悪や悪霊などの霊性の差異がある。これらの霊のおるところを霊界という。宇宙は現界と霊界によって構成されている。目に見える「物体」の世界たる物質界と、目に見えない「気体」(空気)の世界たる気界があり、この二つが現(象)界を形成している。そしていま一つ、目に見えない「霊体」の世界たる霊界がある。地に地層があり、気界に気層があるように、霊界にも「霊層」があり、上中下三段の霊層界をなしている。

 人間は霊体と肉体の二元素からなっているが、霊体は霊界に属し、肉体は現界に属している。そして人間が生きているあいだは霊肉一体となって活動しているが、死ぬと霊肉離脱して、霊は霊界に帰し、霊界の生活をする。それから親子・兄弟・夫婦・知友は「霊線」(たとえば宇宙線のように目に見えないもの)によつて連結されている。

 さて現界における出来事は、すべて霊界で起ったことを移写したものである。視界におこる事象は、霊界で先におきた事象が、視界に写ってきたものである。霊界が主で現界は従である。霊界はいま夜の暗黒の世界から、昼の光明の世界に転換してきたと前に述べた。この霊界の変化はやがて現界にあらわれてくるであろう。

 夜の世界は月の世界であり、昼の世界は太陽の世界である。月は水素であり、太陽は火素である。この火素が漸次、霊界に増量しつつあることは、霊界を清め、現界を浄化する力がふえつつあることである。浄霊法の浄化力が次第に勢を増しつつあるのであるから、浄霊法による治癒効果が増大しつつあるのである。

 いったい万象は火素(日)・水素(月)・土素(地)の三大元素からなっている。また物質界には空気・電気・磁気などがあるが、さらに「霊気」がある。物質は士素・空気は水素・霊気は火素である。この三元素は無限微粒原子であるが、この三つが融合活動して、宇宙を形成し運動させている。

 元来、物質は固体・液体・気体の三つの形状において存在するものと考えられていた。ところが英国の物理学者クルックスは、真空管による実験で、右の三体ではない第四体を発見した。これは一八九一年、ジョン・ストーネーによつて電子と命名された。さらにその後、元素は一定不変のものではなく、たえず変化してゆく運命をもつていること、元素は各独立したものではなく、陽電子と陰電子の組合せよりなり、陽核の周囲を陰子が廻転しているものであることがわかった。そしてこの電子こそは、もはや分つことのできない究極のものであり、これは物質を超越した霊のようなものであると確認された。つまり物質観の究極に、かつ物質の根源に霊的なある物を発見したのである。科学者が物質のなかに原子や電子を発見したように、明主はある精妙なはたらきをするものを「霊子」と名づけた。

 さて浄霊法は霊主体従の法則にしたがって、人間の霊魂の汚れから生ずる霊体の曇りが、身体の毒血膿となって集溜固結しているのを、溶解し排泄する浄化の方法である。その霊の曇りなる毒素を、人体放射能の力によって死滅させるのである。なんとなれば、この放射能の元素は、光の本質である火素から発生する光波である。この光波は光の微粒子で、その活力はすばらしい殺菌力を発揮する。というのは、光波の微粒子こそ、神霊からの放射能であるからである。それは霊の光波であるから霊光とも霊波ともいう。この神霊放射能は神秘光線で、ラジュームよりも浸透性が強い。

 浄霊の方法は、明主の書かれた光の文字の紙片を、お守りとして懐へ入れる。すると光の文字の墨色から強力な光波(目に見えない光線)が放射し、術者の身体から腕を通して掌から放射する。それは明主の霊体から霊線を通じて、光波が個々の光の文字へ無線電波のように、一瞬にして伝達するのである。それは明主の腹中に光の玉があつて、この玉の光のかたまりから、光波は無限に放射されるのである。この光の玉は観世音菩薩の如意の玉から、明主にむかつて無限光を供給されるのである。これが妙智力ともいわれる観音力である。如意輪観音のもつている玉もこれである。要するに観世音菩薩の如意の玉から発揮される光素が、明主の霊体を通って観音力の発現となり、それがさらに霊線によつて信徒の霊体を通じて浄化力となるのである。

 アリストテレスは「詩学」のなかに、悲劇は見物人の恐怖と同情によって、そのような激情から釈放するという。いわば悲劇の効用は精神のカタルシス(浄化または釈放)にあるといった。カタルシスはもと医学の用語で新陣代謝機能を促進し、老廃物を排泄することであるという。この考えとよく似たものが浄霊法である。すなわち霊体の曇りのあらわれである肉体の毒結を、霊波をもって解消浄化するというのである。そして霊波の光源が観音の如意宝珠であるという。当時の指圧療法では、淋巴腺は人体の下水である。この下水がつまると病気になる。だから溝掃除をする必要がある。下水のつまったところが、淋巴腺のしこり(固結)である。このしこりを指圧でときほごし(溶解)、「溝さらえ」してきれいにする(浄化)ことによつて、下水の流れをよくするのである。下水の流通がよくなると健康になると説いていた。

 この指圧のかわりに、霊波をもって溶解し浄化するというのが岡田式神霊指圧療法であり、それが後の浄霊法である。では霊波とは何か、その着想のよって来るところは、つぎのごときものであろう。すなわち指圧でも指先から発する人体電気(身体から電気を発する電気うなぎなどがある)には、治療効力があると考えていた。この人体電気の源は神霊にあるとし、かつ、それは単なる人体電気ではなく、神霊から発する神霊放射能で、それが人間の霊体を通って浄化力を発揮すると考えたのである。さらに浄霊法で掌を患者にむける形はなにからの着想であろうか。それも身体から後光を発している光背をつけた阿弥陀や観音像が、掌を外にむけたものから思いついたのであろう。いったいその手は何を意味するか、それは救世<すくい>の手である。その救いの手で
救済できるのは、その手から霊能のある光がでるからであると考えたからであろう。そしてそれが光である以上、ラジューム光線のように、なにも直接に手を身体に接触する必要はないから、これをある距離から放射させればよいわけだ。

 昭和二十七年六月二十二日、フランスのパリ・マッチ誌主筆のレモン・カルティユ氏夫妻が、神山荘で明主と対談した。その時、カルティユ夫人が、「恐れ入りますが、できれば御手の写真を撮りたいと思いますが」と申し入れ、明主が手をかざしたところを正面から写し、「世の苦しみを治す手、という題で出します」といった。「世の苦しみを治す手!」、その手がいかに多くの奇蹟を生んだか、そのほんの一部の救いの業だけでも「世界救世教奇蹟集」に満載されてあるし、その機関誌「地上天国」や機関紙「栄光」のお蔭ばなしに無数に掲載されている。その病気直しの手こそ、世紀の「奇蹟の手」として戦後に登場するのだ。

 この年の九月十五日に大本教を脱退し、それまで麹町半蔵門に経営していた大本教の分所を治療所に利用し大森から出張治療した。この分所は昭和二年頃は愛信会という教会であつたが、明主が大本教の宣伝師(布教師)となるにおよんで、その分所としたものであった。十月十一日に満洲がえりの東光男というものが訪れて撮影した明主の写真の背後に雲煙がのぼり、頭上に千手観音の画像が映っている霊写真の奇蹟に驚き、おのずから湧く希望感に酔ったとしるしている。今一枚の霊写真は、明主がテーブルに俯伏せになった頭上に、観音の守護神である金竜神が首をもたげてとぐろを巻き、五条の光を発していた。十一月二十三日、新しい宗教団体をつくるために、応神堂で仮発会式をあげた。この年、「岡田式神霊指圧療法」を刊行した。

 昭和十年(五十四歳)の一月元旦に、半蔵門の出張所で正式の発会式をあげ「大日本観音教会」と称した。これが大いに発展して、数ヶ月後には手狭になつたので、適当なところを物色していたが、ある日、玉川上野毛に赴き、土地三千坪、建坪二百数十坪の売家をみつけ、思わず「ここだ」という声がでた。十月一日、手金一万円を都合して、ここに移り「大日本観音教会本部」(後の五六七<みろく>教関東別院)とした。この家は勧銀の担保に入っていたが、競売の結果、九万五千円となり、残金は月賦で解決した。さきに大本教を脱退してから一年有余、十二月八日に大本教は弾圧をうけたが、脱退していたので事なきをえた。

 昭和十一年(五十五歳)の八月四日、埼玉県大宮警察署から呼び出し状がきた。五日に赴くと、それは大宮支部長の武井某が、片倉製糸工場の女工の集団チブスセ治療したところ、法定伝染病であるため医師法違反に問われたので、会長であるから呼びだされたのである。この時、さきの霊写真はトリック写真であろうと追求され、一晩留置されて翌日釈放された。ついで地元の玉川署に引致され、十一日間も留置されたうえ、さきの大本教の関係から家宅捜索をもうけた。

 これまでは宗教と療術行為の両方をやっていたが、この時、いままで家計を支えてきた療術行為を禁止されたので、忽ち収入の途が絶え、一時は前途暗胆たる思いであつた。その後、種々運動の結果、両方はやれないというので、経済上、宗教をすてて療術のみでたつことになり、昭和十二年(五十六歳)の十月二十日に許可をえた。

 昭和十五年(五十九歳)の十一月下旬、また玉川署に召喚された。それはある患者に「医者にゆかなくても自分の方で治る」といつたことが医療妨害にあたるというわけで、医師法違反に問われたのである。営業停止になりそうなので、こちらから先手をうつて、三十日に廃業を申しでたところ、数日後にまた呼びだされて、「療術行為は生涯やらない」という誓約書まで書かされた。以後十九年春まで治療をやめて、主として治療師養成に専念した。

 昭和十六年(六十歳)、ところが大臣・将軍・実業家などで治療を乞いにきたものがあるが、「今は廃業して治療はできないことになっているから、警視庁の許可をえてくればやってあげる」といつたから、これらの顕官・実業家が警視庁にゆくので、同庁でも当惑し、「療術行為の届出をしてもらたい」といってきたから届出はしたが、やむをえない人だけ治療することにした。

 かく、昭和九年五月に神霊療法を開業したが、昭和十一年八月に大宮警察に召喚され、ついで玉川警察に留置されて療術行為を禁止され、種々、運動の結果、一年三ケ月後の昭和十二年十月末に許可をえた。それから一年後の昭和十五年十一月末にまた玉川署に医師法違反で呼びだされたので、今度は自発的に廃業届をだし、翌十六年また療術行為の届出をしたものの、やむをえない人だけ治療することとし、十九年春まではほとんど治療をやめて、治療師養成に専念したのである。したがって「奇蹟の手」は終戦後の混乱のなかに、はじめて光を発して大きくクローズ・アップされたのである。