四 光は闇を追う

 昭和四年(四十八歳)の五月下旬、大森八景坂の住居の上空に、大暴風雨と雷鳴がおこり、その時から観世音菩薩をまもる金竜神が、明主の守護神となった。昭和六年(五十歳)六月十四日、房州鋸山の日本寺に参詣せよという神の啓示があった。十五日、未明に起床、随行者三十人とともに提灯に道を照らしながら一時間で頂上に達した。そして黎明を破って昇らんとする旭日の光を礼拝し祝詞を奏上した。この時、明主は霊界における昼夜の転換を観相し、「霊界転換説」と「天時到来説」をなしたのである。

 すなわち明主はいう。「私は地上天国建設を唱えているが、これは私が考え出したのではない。天の時到って、神が私をして実現すべき計画と様相を示すとともに、目的を遂行しうる絶大なる力をあたえ給うたのである。その力のうち、物を識る力の発揮が私の解く説となり、今日まで暗幕にとざされていた謎や霧に覆われてぼんやりしていたものなどがはっきりと霊覚に映り、そのままを書くのであるから、一切が解明される時となったのである。あたかも今日まで夜の世界であったから、闇の夜の不可視はもちろん、月明でも鮮明に物を見
うるほどではなかった。それが現在までの世界の実相であった。ところが、昭和六年の半ば頃から黎明期に入ったのである。その時か・契機として漸次、太陽は上昇しつつ昼の世界に入ったわけで、今や光明世界は来らんとし、地上天国は出現せんとするのである。かくてあらゆる謎も秘密も社会悪も、光明にさらされることになった。いわば不透明が透明になり、悪のかくれ場がなくなる時となったのである。人間の三大苦である病貧争の原因が、悪から発生したとすれば、悪の追放によって、病貧争絶無の世界が生れるのは、なにも不思議ではない。そして三大苦の中で主たるものは、人間の病苦である以上病患の根源といえども明かとなるのは当然で、ここに病なき世界が実現するのである」と。

 まず天時到来とはなんであるか。釈尊の弥勒下生は仏滅後、五十六億七千万年であり、キリストは「天国は近づけり」といつたが、それはいつとはいっていない。日蓮の義農の世は六百六十年後といつて、まだ天の時の到っていなかったことをいうのである。ところが明主の霊智による観相によれば、霊界の昼夜は転換し、今や黎明期に入り、太陽は上昇しつつ昼の世界に入り、光明世界は来らんとしている。かく今や霊界においては何千年目か、何万年目かに当然、来るべき昼夜の切替時がきた。これを天時到来というのである。

 つぎに霊界転換説の前提をなすものは、明主のいう「霊主体従の法則」である。これは視界のあらゆる事象は霊界の移写である。したがって霊界の様相が変ると、やがて現界の事象に変化があらわれてくるというのである。霊象は現象を決定する因であるから、霊界は主であり現界は従である。これは人においても同様で、霊が主であり、体が従である。身体の病気のもとは霊の曇りであるから、これを浄化することによって病も治るとする説である。この法則によって、霊界の光明化はやがて現界に移写して、光明世界を実現するであろうというのである。明主のいう予言は、霊界の変化をば、やがて現界に起るであろう変化の前兆として、未来を察するのである。

 つぎに霊界転換説について、こうも説いている。本来、天地間のあらゆる森羅万象は、霊界と現界との両面の活動によって生成し化育し、破壊し、創造しつつ、限りなき発展を遂げつつあるのであるが、これを大観すれば無限大なる宇宙であるとともに、無限微の集合体であるところの物質界である。それがきわまりなき転変によつて、停止するところなき文化の進歩発展がある。ここに心をひそめて考える時、宇宙意志すなわち神の目的と意図を感知しないわけにはゆかないであろう。そうして一切に陰陽明暗があり、昼夜の区別がある。また春夏秋冬の変化や万有の盛衰をみるとき、人生にもよくあてはまるのである。またこれを時にあてはめるとき、一日に昼夜の別あるごとく、実は一年にも十年にも百年、千年にも昼夜の別がある。しかしこれは霊界での時象で、現界では一日の昼夜だけがわかるにすぎない。

 この理によって、今や、霊界には何千年目かに当然、来るべき昼夜の切替時がきたのである。霊界における世界は今日まで夜であった。夜の世界は現界とおなじく暗黒で、定期的に月光をみるのみである。月が光をかくせば星の光だけになり、それも曇れば暗黒となる。これを移写する現界の事象をみても、今日までの世界の国々の治乱興亡の跡や、戦争と平和の交互につずく様相などは、ちようど月がみちてはかけるようなものである。しかるに天運循環して、今まさに昼に転換せんとし、ちょうどその黎明期にあたるのである。

 そうして霊界における昼夜転換の結果として、人類が未だ経験せざる、驚くべき喜ぶべき一大変化が起ることである。しかもその端緒はすでにあらわれはじめている。夜の世界は闘争・飢餓・病苦にみちた暗黒時代であるに反し、昼の世界は平和・豊穰・健康にみちた光明時代である。現在の日本は、今や夜の世界から昼の世界への転機の様相をあらわしている。かくて霊界は漸次昼になりつつあるので、やがて正は邪を制し、善は悪に勝ち、病・貧・争も次第にあとを絶ち、幸福のみつる平和な地上天国を建設することが容易になつたのである。この地上天国は人間がつくるのではない。神がつくるのであるから、自然に時のすすむにしたがって進展するので、人間はただ神のまにまに動けばよいのであると。後年の明主が地上天国の模型をつくるようになったのは、かく霊覚によって、霊界の昼夜転換を観相したからである。

 昭和七年(五十一歳)に、明主はある事情から大本教を脱退する決心をかためた。この頃はさきの事業の失敗から、借金苦を続けていたが、遂に破産の状態に陥ってしまつた。その結果、銀行との取引はできなくなり、興信所の内報には掲載される。もちろん手形取引は全くできなくなり、現金取引しかできなくなったので、大いにこたえた。また郵便物は破産換算人が目を通すので、不愉快であった。そんなわけで、昭和八年(五十二歳)になって、数ヶ月も赤字が続いたので心細かった。その時、ある銀行員から大黒様をもらったので、はじめて大黒様を観音様のお掛軸の前に安置したら、その月から金が入りだしたので、なる程、大黒様は福の神だと思った。救世教で観音様のお掛軸の前に大黒様を安置するのは、これにより、かつこの時からである。それから大黒様を五十いくつも集めた。この年の十二月二十三日、大森の自宅に信徒が集り、はじめて明主の誕生祝をした。その翌年からは、雅叙園・紅葉閣・中央亭などと外で催すようになった。