善と悪

 世の中は善悪入り乱れ、種々の様相を表わしている。すなわち悲劇も喜劇も、不幸も幸福も、戦争も平和も、そのの動機は善か悪かである。一体どうして善人もあれば悪人もあるのであろうか。この善悪の因って来る所の何か根本原因がなくてはならないと誰しも思うであろう。

 今私がここに説かんとするところのものは、善と悪との原因で、これはぜひ知っておかねばならないものである。もちろん普通の人間であれば善人たる事をこひねがい、悪人たる事を嫌うのは当り前であり、政府も、社会も、家庭も、一部の人を除いては善を愛好する事は当然であって、平和も幸福も悪では生れない事を知るからである。

 私は分かりやすくする為、善悪の定義を二つに分けてみよう。すなわち善人とは「見えざるものを信ずる」人であり、悪人とは「見えざるものは信ぜざる」人である。したがって「見えざるものを信ずる」人とは、神仏の実在を信ずる、いわゆる唯心主義者であり、「見えざるものは信じない」という人は唯物主義者であり、無神論者である。その例を挙げてみよう。

 今人間が善を行う場合、その意念は愛からであり、慈悲からであり、社会正義からでもあり、大きくみれば人類愛からでもある。そうして善因善果、悪因悪果を信じて善を行う人もあり、憐愍(れんびん)の情やむにやまれず人を助けたり、仏教でいう四恩に酬いるというような報恩精神からも、物を無駄にしない、勿体ないと思う質素、倹約等、何れも善の表われである。又人に好感を与えようとし、他人の利便幸福を願い、親切を施し、自己の天職に忠実であり、信仰者が神仏に感謝し報恩の行為も、神仏の御心に叶うべく努める事も、ことごとく善の表われである。まだ種々あろうが、大体以上のごとくであろう。

 次に悪事を行うものの心理は、全然神仏の存在を信ぜず、利欲の為人の眼さえ誤魔化せば、いかなる罪悪を行うも構わないという――虚無的思想であり、欺瞞は普通事のごとく行い、他人を苦しめ、人類社会に禍いを及ぼす事などは更に顧慮する事なく、甚しきは殺人さえ行うのである。そうして戦争は集団的殺人であって、昔からの英雄などは、自己の権勢の為、限りなき欲望の為、大戦争を起し、「勝てば官軍」式を行うのである。「人盛なれば天に勝ち、天定って人に勝つ」という諺の通り、一時は華やかであるが、必ずと言いたい程、最後には悲惨な運命に没落する事は歴史の示すところで、もちろん動機は悪である。

 このように人の眼さえ誤魔化せば、いかなる事をしても知れないという事であれば、出来るだけ悪事をして、栄耀栄華に暮す方が得であり、利口という事になる。又死後人間はゼロとなり、霊界生活などはないと思う心が悪を発生する事になる。しかるにいかほど悪運強く、一時は成功者となっても、長い眼でみれば必ずいつかは没落する事は例外のない事実である。第一悪事を犯した者は、年が年中不安焦燥の日を送り、いつ何どき引張られるかわからないという恐怖に脅え、良心の苛責に責められ、ついには後悔せざるを得なくなるものである。よく悪事をした者が自首したり、捕ってから反って安心して刑罰にあう事を喜ぶ者さえある事実を、われらは余りに多くみるのである。それはすなわち神より与えられたる魂が、神から叱責さるるからである。何となれば魂は霊線によって神に通じているからである。ゆえに悪を行う場合、完全に人の眼を誤魔化し得たとしても、自分の眼を誤魔化す事は出来ないから、人間と神と霊線で繋がっている以上、人間のいかなる行為も神には手にとるごとく知れるからで、いかなる事も閻魔帳に悉ことごとく記録さるるという訳である。このの意味において悪事ほど割の悪い事はない訳である(神と魂との関係については後段「霊線」の項目において詳説する)。

 しかしながら世の中にはこういう人もある。悪事をしようとしても、もしかやり損って世間に知れたら大変だ、信用を落し非常な不利益となるから、という保身的観念からもあり悪事をすればうまい事とは知りながら、意気地がなくて手を出し得ないという人もあり、又世間から信用を得たり、利益になるという観念から善を行う功利的善人もある。又人に親切を行う場合、こうすれば何れは恩返しをするだろう――とそれを期待する者もあるが、この様な親切は一種の取引であって、親切を売って恩返しを買うという訳になる。以上述べたような善は、人を苦しめたり、社会を毒したりする訳ではないから悪人よりはずっと良いが、真の善人とはいえない。まず消極的善人とでもいうべきであろう。したがってこのの様な善人は、神仏の御眼から覧れば真の善人とはならない。神仏の御眼は人間の腹の底の底まで見通し給うからである。よく世間の人が疑問視する「あんな好い人がどうしてあんなに不幸だろう」などというのは、人間の眼で見るからの事で、人間の眼は表面ばかりで肚の底は見えないからで、このの種の善人も詮じ詰めれば「見えざるものは信じない」という心理で、なんらかの動機に触れ、少々悪事をしても人に知れないと思う場合、それに手を出す憂がある以上、危険人物とも言える訳である。これに反し見えざる神仏を信ずる人は、人の目は誤魔化し得ても神仏の眼は誤魔化せないという信念によって、いかなるうまい話といえども決して乗らないのである。ゆえに現在表面から見れば立派な善人であっても、神仏を信じない人は、いつ悪人に変化するかわからないという――危険性をはらんでいる以上、やはり悪に属する人と言えよう。

 以上の理によって真の善人とは、「信仰あるもの」すなわち見えざるものを信ずる人にしてその資格ありと言うべきである。ゆえに私は現在のごとき道義的観念の甚しき頽廃(たいはい)を救うには、信仰以外にないと思うのである。

 そうして今日まで犯罪防止の必要から法規を作り、警察、裁判所、監獄等を設けて骨を折っているが、これ等はちょうど猛獣の危害を防止する為檻を作り、鉄柵を取廻すのと同様である。とすれば犯罪者は人間として扱われないで、獣類同様の扱いを受けている訳で、折せっかく貴き人間と生れながら、獣類に堕して生を終るという事は、何たる情ない事であろう。人間堕落すれば獣となり、向上すれば神となるというのは不変の真理で、全く人間とは「神と獣との中間である生物」である。この意味において真の文化人とは、獣性から脱却した人間であって、文化の進歩とは、獣性人間が神性人間に向上する事であると私は信ずるのである。したがって、神性人間の集る所それが地上天国でなくて何であろう。

「信仰雑話」 昭和23年09月21日

信仰雑話