世の中の人ばかりじゃない、信者でもそうだが、よく行詰りという言葉を発するが、これは物の真相を弁<わきま>えないからで、何事も行詰りがあるから発展するので、つまり行詰りじゃない訳で、丁度駈出しすぎては息が続かないから一休みするのと同じ訳で、言わば節<ふし>である。これは竹を見ても分る通り、伸びては節が出来、伸びては節が出来るから丈夫に育つので、伸びるばかりで節がなければ、アノ強靭な竹とはならないのである。従って節の少い竹ほど弱く、節の多いほど強いのはそういう訳である。このようにすべては自然が教えているから、何事も大自然をよく見つめれば物事は大抵分る筈である。
右は自然の行詰りについて書いたのだが、困る事には人為的に行詰らせる人も少くないので、これこそ叡智が足りない為で、こうすればこうなるという先の見通しがつかないからである。こういう人こそ壁に突当って二進<につち>も三進<さっち>もゆかなくなるのであるから、これを読んだらよく心の奥にしまっておき、行詰った際、振向いてよく考えてみれば分る筈である。それによってどこかしら間違っている点に気がつけばいいので、人間は不断から精々智慧を磨いておくべきで、それには出来るだけ御神書を拝読すべきである。
「天国の福音書」 昭和29年08月25日